そら飛ぶ庭
   

介護日記
2008.05.26
父、腸閉塞の手術
自分、交通事故で入院
看護の連携、成功する  

大島  一洋

■出て来た母の日記

4月1日(火)曇
 父の寝室、茶の間、廊下などに掃除機をかける。
 夜、DVD「大奥」を見たあと原稿書き。気が付いたら午前4時。これでは朝7時に起きられないので、台所のテーブルの上に「昨夜仕事で遅くなったので朝食いりません」という父宛のメモを置く。
 夜、熊崎に誘われて「にしの」「すし天」とはしご。深夜12時半帰宅。
 
写真
れんぎょうが真っ盛り

4月2日(水)曇
 目覚まし時計なしでたっぷり眠った。午前11時起床。
 父が作っておいてくれた朝食を食べる。
 夜、DVD「アポカリプト」を見たあと「にしの」で熊崎と飲む。12時帰宅。

4月3日(木)晴
 午後、買い物から帰ると、廊下の端にあった母の机を父が整理していた。薄い大学ノート20冊くらいの母の日記が出てきた。父は母が日記をつけていたことを知らなかったようだ。おそらく父に対する恨みつらみが書いてあるに違いない。
 夜、DVD「寝ずの番」を見る。

4月4日(金)
 昼食のとき、父が言った。「母ちゃんの日記見とったらな、何月何日に何の種をまいて、いつ何を植えたか全部書いてあるのや。俺が勤めとったときは、母ちゃんが全部畑やっとったからな。この日記通りにやればいいんじゃ」つまり35年以上前の日記ということだ。
 夜、DVD「クレイマー・クレイマー」を見る。

4月6日(日)
 午後、落合の白山神社の春祭りで餅投げがあると聞いたのでバスで行く。餅投げなど久し振りに見た。ついでに桜見物。しっかり咲いている。夕方4時帰宅。
 夜、DVD「日本の黒い夏 冤罪」を見たあと読書。
  
 
写真
落合白山神社のもち撒き

4月10日(木)雨のち曇
 午後、買い物から帰って茶の間をのぞくと、父が難しい顔をして母の日記を読んでいた。母は父に読ませるつもりで書いたのではあるまい。いずれ破棄するつもりだったのが、認知症になって日記を書いたことを忘れてしまったのだと思う。
 夕方7時「山海山」で工藤、早川と飲む。「にしの」へ流れ、11時帰宅。

■父の介護認定2に上がる

4月12日(土)晴
 午前、市役所から父の介護保険証届く。新しい認定は要介護2だった。下がると思っていたのが上がった。これで今まで通りのサービスが受けられる。ひと安心。
 午後、父が歌会へ出かけた。
 夜、原稿書き。

4月13日(日)
 父の寝室、茶の間、廊下などに掃除機をかける。
 中津川市長選告示日。宣伝カーがうるさく走り回っている。
 夜、「にしの」。ひどく酔っ払った客がいたので、しばらくして出る。
 帰宅して読書。

4月15日(火)晴、暑い
 今日からビール値上げ。缶ビールの中サイズが一本8円の値上がり。洗濯代も上がった。
 午後、父が和室の仏壇を開け、30分くらい拝んでいた。母の日記を読んで、いろいろ謝っているのかもしれない。
 夜、「すし天」。ここも値上がりしていた。

4月17日(木)雨
 朝食後から、父が腹痛を訴える。昼食は取らなかったが、二度吐いた。「救急車呼ぼうか」と言うと「呼んでくれ」と答えた。我慢強い父が言うのだから、よほど痛いのだろう。可知医院に電話し、市民病院の亀山先生を紹介してもらい、救急車を呼ぶ。坂道の上の旧国道で待っていると5分で来た。戸締りをし、父の健康保険証と市民病院の診察券を持つ。父は担架で運ばれながら「火の元、気をつけろ」と叫ぶ。なんちゅう親父だ。

 
写真
救急車に乗る父
写真
市民病院

 市民病院では検査を終えるのに1時間余かかり、亀山先生に呼ばれた。腸閉塞だった。しばらく様子を見てから手術をしなければならないかもしれないが、高齢なので手術が可能かどうかわからない、とのこと。ヤバイことになってきた感じ。
 いったん帰宅し、入院用の物を揃える。三度目の入院なので、だいたいわかっている。父は内科西病棟のナースセンター前の個室に入れられていた。重体ということだ。
「アピタ」の台湾料理店で食事し、夜8時半帰宅。明日、追加で病院へ持っていく物の準備をする。
 ビ、セ、デを服んで12時就寝も眠れず、起きて焼酎を飲む。

■酒場通いを自粛

4月18日(金)雨
 午前9時2分のバスで市民病院へ。父は昨日よりはマシだが、まだ痛いと言って横になり目をつむったままだった。看護師によると、昨夜二度戻したとか。腸が詰まっているので口のほうへ逆流するらしい。イレウス管といって鼻から腸へ管を通し、腸に溜まっているものを外へ出しているのだが、それでは追いつかないようだ。いずれにしろ腸を空にしなければ手術はできない。
 父に「午後もう一度来る」と言うと「来んでもええ。俺はこうしてじっと寝てるほうがええし、おまえと話しするのもえらい」と答えたので10時35分のバスで帰宅。
 午後、三洋堂へ行きDVDを6本借りる。父が重体なのに酒場へ行くわけにもいかず、映画を見るしかない。いわゆる自粛だ。
 夕食は、おにぎり2ケで済ます。
 夜、DVD「日本沈没」「奥様は魔女」を早送りで見る。
 
写真
入院した父
写真
個室202号室

4月19日(土)晴のち曇
 おにぎりの朝食後、8時37分のバスで市民病院へ。父が「今何時や」と聞くので時計を見せると「なんや、朝の9時か」と言う。「そう、朝の9時」「俺は夕方かと思っとった」。ずっと寝っぱなしなので朝夕の区別がつかなくなっている。ただ顔色はよくなった。
 口を漱ぎたいので、水をくれと言う。水を入れたカップと洗面器を渡すと、口を漱いで痰を出した。水を飲みたい衝動に駆られるらしいが絶対禁止。必ず戻すからだそうだ。
 看護師が来て、下着と寝巻を取り替える。脱いだ下着を持ち帰る。
 午後、母の月命日が昨日だったことを思い出し、仏壇前に花を活け、ろうそくに火を点し、線香をあげる。
 夕食は「アピタ」の台湾料理店でラーメンと小ろんぽう。明日市長選なので「アピタ」前の交差点で現職の大山こうじが最後の演説をしていた。すごい人だかり。
 夜、DVD「ブラックダリア」を見る。
 
4月20日(日)晴
 午前8時37分のバスで市民病院へ。父は昨夜下血したらしい。日曜日担当の若い医師が来て、父の肛門に指を入れて出血を調べたが「ああ、大したことないです」と言った。
 カップに水を入れ、口を漱がせる。そのあと、体じゅうの管を引きずりながらポータブルトイレで排尿した。尿瓶を使わないところがすごい。9時55分のバスで帰宅。土日祝はバスが1時間に1本しかない。
 昼食は、チーズトースト、ヨーグルト(きんかん入り)トマトサラダ、ゆで卵、バナナ、グレープフルーツジュース。
夕食も外食せず、きちんと自宅で食べた。
 夜、DVD「ハンニバル・ライジング」を見る。
 市長選は大山が圧勝。

■ベッドで原稿を書く父

4月21日(月)晴
 午前9時2分のバスで市民病院へ。父の容態に変化なし。医者の検査が終わった父の下血したパンツを持って11時のバスで帰宅。父のパンツをバケツに漬けて血を抜く。
 午後、三洋堂へ行き、DVDを返却して6本借りる。
 明日、弟が来るので和室を掃除し、ふとんを敷く。
 夜、DVD「伯爵夫人」を見たあと読書。
 
4月22日(火)晴
 午前9時2分のバスで市民病院へ。驚いたことに、父はベッドの上で原稿を書いていた。
 正午、弟・史洋到着。病院のレストランでそばの昼食。
 父は一見元気になったように見えるが「えらい、えらい」と口にするので、心臓のほうにも負担が来ているのかもしれない。
 午後1時45分のバスで弟と帰宅。
 
 
写真
ベッドの上で原稿を書く父
写真
4人部屋のベッド

 夕食は「七りん」という居酒屋で弟、熊崎夫妻と4人で食す。食事中、市民病院から電話。ひやっとしたが、明日夕方5時に亀山先生から話があるので来てほしいとのこと。何か決断を迫られる事態がやってきたようだ。11時半帰宅。
 
4月23日(水)晴
 午前9時2分のバスで弟と一緒に市民病院へ。今日の父はよく喋った。母の日記を読んでいたら、母が作った短歌が出てきて、父に対する恨みの歌でショックだったこと。だが、父がこれから出す予定の歌集の終わりのほうに母の歌をいくつか載せたいこと、など。
 11時のバスに乗り、自分は淀川で降り、弟は駅まで。彼はそのまま帰京した。
 午後4時37分のバスで再び市民病院へ。亀山先生に呼ばれたのは6時だった。昨夕撮ったレントゲン写真を見せられ、もう内科治療の限界だから外科に移して手術するしかないと言われる。
 病室へ行き、父に伝えると「じゃあ、このまま好きなもの食って死ぬというわけにはいかんか」と開き直った言いかたをするので「それはダメ、すぐ戻しちゃうだけだから」と答える。「手術せなあかんのなら、するしかないな」と呟いた。
 バスが終わっていたのでタクシーで「にしの」。夕食をし、「いちりき」へ。11時帰宅。

 
写真
入院した父と面会に来た弟

■好事魔多し

4月24日(木)雨
 午前9時2分のバスで市民病院へ。父の病室は外科に移っていた。同じ4階の東棟461号室。午後2時から外科の担当医・江口先生から話があるというので、病院のレストランで昼食。うどん。
 午後2時、江口先生に呼ばれる。50歳前後でテキパキとした物言いをする医者。ちょっと加納典明に似ている。レントゲン写真を見ながら「このままでは、あと数週間しか生きられません。もし手術をすれば、高齢だからリスクは高いけれど、もう少し生きられます。どうしますか」とはっきり言った。「自分では決められないので、本人に聞いてみます」と返事すると「じゃあ、今すぐ聞いてみましょう」と言う。二人で父の病室へ行き、どちらを選ぶかを聞いた。「このまま1か月生きても、何か出来るわけじゃないから、手術のほうに賭けてみる」と父は答えた。
 
 「じゃあ、これから手術しましょう」と江口先生。「これから?」と父はびっくりしている。
 「遅らせても意味がありません。これ以上ほっておくと腸が壊死し始めます」外科医は判断が素早い。あっと言う間に午後3時45分手術開始と決まる。全身麻酔に父の体力が持つかどうかが心配だ。いろんな承諾書にサインと捺印をする。

 3時40分、父は手術室へ入った。自分は待合室で弟に電話。手術を選んだことについて「父ちゃん、偉い。さすがだなあ」と感心している。ケアマネの垣内さんにも電話で伝える。
 5時、待合室のドアが開いて手術着姿の江口先生が現れた。「無事終わりました」
 おお、やったあ、死ななかったあ、と口に出そうになった。ナースセンター隣の処置室に父は運ばれていた。「声をかけてください」と看護師に言われたので「父ちゃん、よかったなあ。手術成功したよ」と耳元で怒鳴ると「寒い、寒い」と言う。「手術のあとは、みんな寒いと言うんです。お腹開いてますから、内臓が外気に触れたせいかもしれません」と看護師さんが教えてくれた。父の体には電気毛布が掛けられた。
 
 
写真
父の手術の痕
写真
手術を終え食事できるように

 しばらく父の傍にいると「もう帰っていいですよ。明日9時半に来てください」と言われた。タクシーに乗り、弟と垣内さんに報告。「よかった、よかった」とみんなで喜ぶ。
 
 図書館前でタクシーを降り、父の手術中に読み終わった本を返却したあと、「アピタ」に向かって雨の中を歩く。台湾料理店で食事するつもりだった。
 「アピタ」前の交差点の信号が青になったので、横断歩道を二、三歩、歩き出した途端、右太腿上部に激しい衝撃。やられた、と思った。すぐ後頭部がコンクリート面に打ち当たる。これはかなり重症だと感じた。誰かが自分の上半身と脚を持って歩道へ運んでくれているのがわかる。「くそー、俺は今、絶対入院できない身なんだぞ。誰だ、こんなことしやがって」と叫んでいた。同じことを何度も叫ぶ自分がわかった。腹が立っていた。交通事故だけはずっと注意してきたのに、この大事なときに何故だ、という気持だった。
 
写真
事故にあった横断歩道

   やがて救急車が来て、市民病院へ逆戻り。救急車の中で「名前は?」「生年月日は?」「住所は?」などと質問される。全部正確に答えることが出来た。市民病院へ着くと、すぐレントゲン室へ運ばれた。頭がガンガンと痛い。後頭部を触ると拳くらい大きな瘤が出来ていることがわかった。瘤が出来ているということは、脳は大丈夫か。救急外来担当の医者から「名前は?」「住所は?」「生年月日は?」「電話番号は?」などと矢継ぎ早に聞かれる。記憶を失っていないことは自分でもわかった。氷枕をあてがわれて処置室に寝かされた。警察官と加害者が来た。自分を車で撥ねた人は62歳のYという男性で駒場に住んでいるという。名刺がないというので、自分の名刺を出し、裏に名前と電話番号を書いてもらう。
 
 レントゲン検査の結果、骨に異常はないので、落ち着いたら帰っていいですよ、と言われる。救急外来窓口で預かり金1万円を払うと処方箋をくれたので、病院内の薬局へ行ってトンプクをもらう。また、明日脳外科で診てもらうようにという指示書もあった。
 タクシーで帰宅。夜8時半だった。全身を調べると、右太腿と右膝に打ち身があった。骨折はない。ひどい頭痛はトンプクを服むと次第に治まってきた。
「好事魔多し」とはこういうことを言うのだろうか。父の手術が無事終わり、明日から看護だというのにこの事故だ。なんということだ。悔しくてならない。
 入浴と飲酒を禁じられていたので、セ、デを服んで寝る。

写真
今年も「ばいも」が咲いた

■前妻へ6年振りに電話

4月25日(金)晴
 午前7時42分のバスで市民病院へ。まず自分の脳外科受診の手続き。7番だった。
 父はまだナースセンター隣の処置室にいた。「父ちゃん、大丈夫か」と聞くと「ようわからん」という返事。看護師によると、手術後の経過は順調とのこと。
 10時、自分の脳外科受診。CTスキャンを撮ったレントゲンを見て、担当の赤羽医師は「これはあかん、即入院」と言った。脳挫傷と急性硬膜下血腫との診断。えー、困ったなあ、親父の看護を誰がすればいいんだ、と思った。父と同じ病棟の二階下の個室202号室に入れられ、点滴開始。4階のナースセンターに連絡し、自分が交通事故で入院したことを伝え、父には絶対内緒にしてくれと頼む。
 
写真
今年も咲いた利休梅
写真
しだれ桜

 次に熊崎に電話して病室へ来てもらう。自宅の鍵を渡し、とりあえず必要な物を持って来てくれるよう依頼。加害者のYさんに電話すると、保険会社の人を連れて来た。すべて保険会社が面倒をみてくれるということで、いろんな書類を置いていった。
 4階から父の担当看護師が来て、麻酔から覚めるのに暴れているという。「誰か中津川に親戚はいないんですか」と聞かれる。「いないんです。明日は誰か必ず呼びますから、今晩だけお願いします」と懇願。
 
 弟に電話するも、外出中でつかまらない。彼は携帯電話を持っていないのだ。弟の嫁・千恵子さんに事情を説明するが、彼女の母親も腸閉塞の手術をしたばかりで動けないという。考えた末、仕方なく前妻の治子に電話。幸いにつかまった。彼女と話すのは6年振りくらいか。父と治子は相性がよかったので、彼女にすがるしかなかった。離婚したのだから微妙な立場である。現在の妻・秀子は父と会ったこともないし、母親を自宅介護しているから動けるはずがない。
 治子は少し待ってくれ、と言って電話を切った。しばらくすると次男の現から電話。治子は現に相談したらしい。結局、治子は現と一緒に明日午前中には病院へ来ることが決まる。ほっとして4階のナースセンターにその旨連絡する。
 夜遅く弟から電話。「治子さんを巻き込むのは筋違いだ」と言いつつも、他に方法がなく、26、27日は治子、28、29日は千恵子さん、30日には弟が来ることで話がまとまった。点滴さえはずれれば、自分も4階へ行けるが、それがいつになるかわからない。
 こんな交通事故にあうのは初めてだし、入院は35年振りだ。
 頭痛薬を服んだら、知らないうちに眠っていた。

 
4月26日(土)曇
 午前11時、治子と現が自分の病室へ来た。もう一度事情を説明し、すぐ4階の父の部屋へ行ってもらう。現が時々降りてきて、様子を説明してくれた。父は麻酔のせいで頭が混乱しているらしく、現を一洋と呼んだり史洋と呼んだりするとか。また「ここはどこや」と叫んだかと思うと、急に正気になり「俺は手術したんや。ここは病院や」と言ったりするらしい。
 一時は体温が39度まで上がり肺炎になりかけ、ちょっと危なかったが、やがて37度まで下がったとか。
 赤羽医師が来て、吐き気はないか、手足にしびれはないかと問診した。食欲はあり、病院食は全部食べた。手足にしびれもない、と答える。
 父の容態が落ち着いたので、現は夕方6時過ぎの電車で帰京。治子は中津川のお姉さんの家に泊まることになっている。夜8時過ぎ、熊崎が治子を送ってくれたよう。
 深夜になっても眠れず、空腹に襲われる。ペットボトルのお茶を飲んで誤魔化す。朝方少し眠ったような気がする。

■無断外出

4月27日(日)晴
 午前6時に起こされる。朝食を全部食べる。点滴が終わったので、9時頃入院時の服装に着替えて4階の父の部屋へ行く。4人部屋の廊下側だった。自分の顔を見て、父は「ああ」と言った。ずっと傍にいたと思っているらしい。事故のことがバレないですんだようだ。まもなく治子が来たので2階の病室へ戻る。頭が重く、時々クラクラする。 熊崎夫妻と牧野が自分の見舞いに来てくれた。談話室でしばらく話す。
 4時頃、着替えて父の病室へ顔をだす。いちいち着替えるのが面倒だが、パジャマ姿で行くわけにいかない。父は車椅子の散歩から帰って来たところだった。「おまえはどこ行っとったんや。治子さんがみーんなやってくれとるのに」と父怒る。頭がハッキリしてきて、自分の動きが腹立たしいのだろう。まさか2階下に入院しているとは知らないから仕方がない。
 夜、熊崎が買ってきてくれたバナナとチョコレートを食べ、12時就寝。
 
写真
恵那山と桜並木

4月28日(月)曇
 午前6時に起こされる。7時半朝食。9時に着替えて4階へ。父の口漱ぎと痰出しを手伝う。治子が来たのであとをまかせ、タクシーで自宅へ。無断外出だ。髭剃り、爪切りなどを持ち、銀行から東京へ5月分の生活費を振り込む。
 病院へ戻ると、父は腸と小便の管が取れて、点滴だけになっていた。看護師さんに支えられて少し歩いたそうだ。
 2階の自分の病室に戻る。外出したせいか、頭がずっしりと重い。
 午後1時過ぎに4階へ行き、治子にレストランで食事してくるように言う。その間に弟の嫁・千恵子さん到着。明日から治子と入れ替わる。治子に、父の下着を買って明朝持って来てくれるよう頼む。
 自分の病室へ戻る。午後3時にケアマネ垣内さん来。今後の打ち合わせのあと、父の病室へ行った。
 6時過ぎ、4階へ。父は髭剃り、爪切り、歯磨きなど、すべて千恵子さんに手伝ってもらったようだ。さっぱりした顔付きで眠っていたので、病室を出る。千恵子さんはプラザホテル栄に泊まることになっている。
 夜、頭痛はげしく、看護師に頭痛薬をもらって服む。

■激しい頭痛

4月29日(火)晴 昭和の日
 午前8時半頃、父の病室へ。父は点滴が取れ、朝食は重湯、みそ汁、ゼリー、ヨーグルトを食べたとか。9時過ぎ、千恵子さんと治子来る。治子から買ってきてもらった下着、バスタオルなどを受け取り清算。治子が帰京すると父に伝えると「どうもありがとう。えろう助かったわ」と言った。あとは千恵子さんにまかせて自分の病室へ戻る。
 昼食後、個室を出て4人部屋へ引越し。廊下側で暗くて狭い。そろそろ退院できるかもしれない。
 4時頃、Yさん来る。保険会社の書類に署名・捺印する。Yさんが誠実な人なので助かった。これが若いチンピラだったら面倒なことになっていただろう。
 夕食後、4階へ。父が「俺一人で出来るから、もう千恵子さんもおまえも帰ってええ」と言うので「じゃあ」と病室を出る。1階まで千恵子さんを送り、タクシーに乗せたあと、喫煙所でタバコを一本吸う。頭にくらーっと来た。
 夜、ベッドで雑誌を読もうとしたが、照明が悪いのか、頭が痛くなった。頭痛薬をもらって11時就寝。

4月30日(水)晴
 午前8時半に父の病室へ。父の朝食はおかゆ、みそ汁、何かの卵とじだったらしい。千恵子さんが来たので交替する。
 昼食後、父の病室へ。千恵子さんは病院内のレストランへ。父の昼食は、メロンパン、うどん、肉団子。ほとんど健常者と同じ食事だが、父は半分残した。「おまえも、そんなに付いとらんでええから好きなようにせえ」と言うので、昼食から戻った千恵子さんにまかせて2階の病室へ。頭痛薬をもらって1時間ほど眠る。
 
 午後3時、「にしの」の忍ちゃんと松原が見舞いにくる。3人でレストランへ行き、コーヒー。後頭部の瘤は半分くらいになっていたが、ふたりは触って驚く。しばらく雑談し、世の中、何が起こるかわからんなあ、という結論に落ち着く。
 父の担当医・江口先生来て、父の今後を話してくれた。(1) 明日、傷の半分を抜糸する。(2) 退院は連休明け。(3) 出来るだけトイレまで歩くように。4階へ行き、父に伝える。「トイレまで歩くのがえろうてかなわん」と言うので「それがリハビリや」と答えると納得したようだった。
 夕方、弟到着。入れ替わりに千恵子さん帰京。連携がうまい具合にいった。
 父の夕食は、おかゆ、大根煮など。父はおかゆだけ食べた。食後「目薬をさしてくれ」と言うので、仰向けに寝かせてさしてやる。「もう帰っていいか」と聞くと「ええよ、ありがとう」との返事。タクシー乗り場まで弟を送る。彼は実家に泊まる。
 2階の自室に戻る。父と同じ4人部屋なのに、自分のほうが暗くて狭い感じがする。まるで穴倉だ。夜眠れず、睡眠薬がわりに頭痛薬をもらう。自分はいったいいつ退院できるのだろうか。

(次回へつづく)




大島 一洋  (おおしま・いちよう)
1943年岐阜県中津川市生まれ。早稲田大学第一文学部美術専修科卒。
大和書房を経て、平凡出版(現マガジンハウス)に中途入社。「週刊平凡」「平凡パンチ」「ダカーポ」「鳩よ!」などの雑誌および書籍編集にたずさわり、2005年定年退職。現在はフリー編集者&ライター。著書に『芸術とスキャンダルの間』(講談社現代新書)。
 
 
【 私の介護奮闘記 「田舎日記」 掲載記事一覧 】
Vol.31 2009年2月1日〜2月28日
介護か共同生活か。父の「指差し確認」。自分の減酒努力
本文を読む
Vol.30 2009年1月1日〜1月31日
母の一周忌法要。父「俺は100歳まで生きるぞ」。自分、ガンマGTP566に上がる
本文を読む
Vol.29 2008年12月1日〜12月31日
父、認知症の気配。自分、ヘルペス発症。一人で年末大掃除
本文を読む
Vol.28 2008年11月1日〜11月30日
父、身辺整理始める。自分、体調不安。初雪降る
本文を読む
Vol.27 2008年10月1日〜10月31日
父、元気だが、嫌な予感。母の一周忌日程決まる。一年振りの上京
本文を読む
Vol.26 2008年9月1日〜9月30日
父、95歳の誕生日。足の浮腫みひどくなる。48年振り、恩師に会う
本文を読む
Vol.25 2008年8月1日〜8月31日
平穏な日々続く。父、オリンピックに興味なし。事故示談金、保険屋の払いしぶり
本文を読む
Vol.24 2008年7月1日〜7月31日
父、腸閉塞再発で入院。母の初盆行事終わる。孫と初めて会う
本文を読む
Vol.23 2008年6月1日〜6月30日
父、驚異の回復力。頭痛は降雨の前兆。父の歌集、出来上がる
本文を読む
Vol.22 2008年5月1日〜5月31日
自分、退院。父、退院。頭痛の日々
本文を読む
Vol.21 2008年4月1日〜4月30日
父、腸閉塞の手術。自分、交通事故で入院。看護の連携、成功する
本文を読む
Vol.20 2008年3月1日〜3月31日
介護保険更新手続き。父の体調、完全復活。後期高齢者医療制度の問題
本文を読む
Vol.19 2008年2月1日〜2月29日
父救急車で運ばれる。母預貯金の整理。四十九日法要
本文を読む

Vol.18 2008年1月1日〜1月31日
母、急死す。有料老人ホームへの疑惑。父、体調崩す

本文を読む

Vol.17 2007年12月1日〜12月31日
おむつ代、月に2万円。母のリハビリ始まる。父、椅子から転落
本文を読む
Vol.16 2007年10月27日〜11月28日
肛門から便をほじくり出す、父退院、胃腸に異常なし。母、養老院で肺炎になる
本文を読む
Vol.15 2007年10月10日〜10月26日
帰郷一年、同じ日に父再入院 「お元気ですか」「もう死んどる」 母、老人ホーム入居決定
本文を読む
Vol.14 2007年9月1日〜10月9日
母が退所、自宅介護に 父は賞味期限切れの紅茶を平気で飲む ガンマGTP3倍に跳ね上がる
本文を読む
Vol.13 2007年 8月
「自分の過去がとおいとおい山の向こうに」 「もう人間やめとうなった」 母、平行棒を使えば歩けるように
本文を読む
Vol.12 2007年 7月
施設の夏祭りはボランティアの踊りから 父と母は寄り添ってアイスを食べる 「あんた、ちゃんと仕事いっとるの」
本文を読む
Vol.11 2007年 6月16日〜30日
「協力して、おだやかな生活を心掛けたいのです」 父に手紙を書いて、置いておく 母はボケても面白いキャラ
本文を読む
Vol.10 2007年 6月〜15日
蓋に錐で穴をあけ、ペットボトル・シャワー考案 ぐっしょり濡れた母のオムツを替える 台所で、10センチほどのムカデ発見
本文を読む
Vol.9 2007年 5月
「もうあかん、お迎えがくるー」母が脳梗塞で入院 激しい怒鳴り合いを父とする
本文を読む
Vol.8 2007年 4月
「頭んなかが半分にへってしまったみたいや」「それがボケや」 母の介護度3に上がる
本文を読む
Vol.7 2007年 3月
人間一代なんて、あっというまや 介護保険の更新手続き半年ごとに 能登半島で地震、中津川も揺れる
本文を読む
Vol.6 2007年 2月
父の相手をするため囲碁を習う 中津高校の同窓会に出席 自室の窓から「鬼は外」
本文を読む
Vol.5 2007年 元旦から1月末まで
母、深夜の屋内徘徊 普段と変わらぬ正月 大島家伝統の単純雑煮
本文を読む
Vol.4 2006年 大掃除、そして年越し
弟との交替介護に父 不快感示す 「 あんたなんかに、 ツベコベ言われんでもええわ 」 と母怒る 一人さみしい大晦日
本文を読む
Vol.3 2006年
「なんや、わてがおらんほうがええのか」と、母 介護認定で、父は3、母は2 下血で精密検査
本文を読む
Vol.2 2006年 父退院
「あんた、誰やね」退院の父に、母 ヘルパーさんに日曜を除いて毎日来てもらう 転ぶのが一番あぶない
本文を読む
Vol.1 2006年 父93歳、母88歳
携帯の留守電に父の声が3回 故郷に45年ぶりに帰る 父母と暮らす決意
本文を読む
 
 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.