2008.02.18
 
 
大島 一洋

 

 
1月1日(火)雪
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元旦の雪 わが家の前

 午前7時半起床。新聞を取るために玄関を開けると、一面の雪。今年初めての雪だ。
 午前11時、昨年と同じく恵那にある笠松競馬の場外へ、熊崎、高木、柘植と4人で行く。第3レースから8レースまで買う。1万と少し負け。午後3時帰宅。雪は止んで晴れてきた。父は一人で昼食。
 夜、原稿書き。

1月2日(水)晴

  午後、菩提寺・東円寺と西宮神社へ初詣。市内を散歩。晴れているが風が冷たい。
 夜、DVD「日の名残り」を見たあと「にしの」へ。忍ママが和服だった。11時半帰宅。入浴。久し振りにチック・コリアのCD。

1月3日(木)曇

 午後、三洋堂へDVD5本返却し、新たに5本借りる。今月締め切りの原稿が3本あるのに、DVDばかり見ていていいのだろうか。
 夜、DVD「ボーン・アイデンティー」を見たあと「いちりき」へ。自分が今年初めての客とか。11時帰宅。入浴。

 
1月4日(金)晴

 今日からヘルパーさんが来てくれる。
 夜、DVD「トウ・フォー・ザ・マネー」を見たあと原稿を書いていると、「いちりき」のママから電話。「いやな客が一人いるので助けに来てくれ」と言う。仕方なく出かける。
 自分が顔を出したら、70歳くらいの男が帰って行った。しばらくして新しい客が4人来たので自分は10時半帰宅。原稿の続きを書く

 
1月9日(水)晴

 午前8時54分の電車で多治見へ。「ハイリタイヤー多治見」の事務所で11月分の請求書を受け取る。総額30万1015円。明細書を見ると、11月12、13日と病院へ連れて行ってもらった実費が1万4000円ある。こうした特別出費があると高くなる。
 10時から母のリハビリに立ち会う。母は療法士・岡田さんの太い腕の毛を引っ張ったり、白衣のボタンをいじったりして全然集中していない。立った感じが前回よりしっかりしている、と岡田さんは言うが。
 12時、母の昼食の介助をする。大きなサンドイッチ。母が自力で食べるには大き過ぎる。いつも、こんな食事を出しているのだろうか。小さくちぎって母の手に持たせる。少しずつだが半分食べた。部屋へ連れて行き、トイレに座らせると排便した。おむつを替え、ベッドに寝かせる。
 1時頃、中津川から父が、東京から弟・史洋が到着。母のベッドの背を起こし、父と弟と面談。母はにやにや笑っているだけ。言葉数が少なくなっているが、帰りがけに「父ちゃん、まゆ毛がのびとるよ」と言った。午後1時57分の電車で中津川へ戻る。
 弟と畑の里芋を2株掘り起こして洗う。
 夜、父と弟は囲碁。自分は自室で資料読み。

 

 
1月10日(木)晴

 午前中、弟と西宮神社の十日市を見に行く。すごい人出。
 回転寿司「丸忠」で、父、弟と夕食。父の歩き方がおぼつかない。

 
1月11日(金)曇のち晴

 午前10時47分の電車で弟帰京。

 
1月15日(火)晴
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市立多治見病院
 

 午後2時頃、「アピタ」で買い物をしていると、「ハイリタイヤー多治見」から電話。母が昼食中に嘔吐し、下痢もひどいので救急車で県立多治見病院へ運んだからすぐ来てくれという。慌てて帰宅し、午後2時40分の電車で多治見へ。県立病院に着くと、母は救急フロアのベッドで点滴を受けていた。病院の寝巻がかけてあるだけで、素っ裸だった。ベッドの傍に反吐と便にまみれた母の着衣がビニール袋に詰めて置いてあった。母の顔は真っ青で声を掛けても反応がない。担当のN女医が来て、「胃腸の具合が悪いようです」と言う。そんなこと言われなくてもわかる。「このままでは施設へは戻せないので入院させてください」と頼むと「ベッドが空いていない」という。「だったらどこか別の病院を紹介してください」とさらに頼む。「市民病院に聞いてみましょう」と言って去っていった。その間にビニール袋に詰められた母の着衣を捨ててもらうよう看護師に依頼。
 母のベッドの傍でじっと待っていると、次から次へと救急車が来る。頭から血を流した男性は交通事故らしい。救急フロアのベッドはカーテンで仕切られているだけだから、全部聞こえる。「すぐ手術室へ」とか「すぐ入院」などと医者が叫んでいる。
 しばらくするとN担当医が来て「市民病院が空いているから、紹介状を書くのでそちらへ移ってください」とのこと。「救急車は出せないので介護タクシーを呼んで運んでください」と言う。介護タクシーに電話。車椅子用ではなく、ストレッチャー付きでふとんも頼む。5時半過ぎに介護タクシーが来た。病院の寝巻を着せ、ふとんを敷いたストレッチャーに乗せて多治見市民病院へ。たったワンメーターの距離なのに介護タクシー代は7180円。多治見市民でないから高いのだそうだ。
 市民病院の救急処置室に入る。担当は山田医師で、県立病院の紹介状を渡したが、検査はすべてやり直しだった。酸素マスクを付けられた母のストレッチャーがあちこちへ走る。
 父に電話して様子を説明する。
 控え室で1時間半待って、やっと山田医師に呼ばれた。胸部レントゲン写真を見せられ、 誤嚥による肺炎との診断。吐いたものが肺に入ったのだ。即入院。ナースセンターの真ん前にある個室412号。酸素マスクのおかげか母の顔色がよくなった。
 山田医師が言う。延命治療をしますか。胃カメラはどうしますか。すべて断る。これ以上母を苦しめたくないと伝える。以前入院したときのことを思いだし、「両手を拘束してください。でないと、点滴も酸素マスクもはずしちゃいますから」と言うと、山田医師は「それを言おうか、どうしようか迷っていたところです」と答えた。看護師がグローブのような手袋を持って来たので、自分が母の手にはめ、ベッドの柵に紐で縛りつけた。可哀想だがやむを得ない。
 意外に近くだったので「ハイリタイヤー多治見」まで歩く。母の部屋で入院用の荷物を準備する。午後8時8分の電車で中津川へ戻る。駅前のラーメン屋でビ−ルと焼そば。
 9時半頃帰宅すると、父はまだ起きて待っていた。簡単に説明する。「俺も明日行く」と言うので、その必要はない、自分だけ行くと話す。どうせ一週間以上入院しなければならないのだから、父が慌てて行く必要はない。

 

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1月16日(水)曇

 午前8時27分の電車で多治見へ。「ハイリタイヤー多治見」で都築施設長に「誤嚥による肺炎ですよ」と伝えると「そんなはずありません。熱で白血球が増えたせいです」と反論する。絶対に施設のミスにしたくないからだ。入居してわずか三か月の間に二回も肺炎を起こすなんておかしい。母は肺炎になったことなど一度もないのだ。「食事介助のし過ぎですよ」と答えて母の部屋に入る。食事介助をすれば、それだけ実費が増えて施設は儲かるのだ。
 昨日まとめておいた入院用の物を紙袋に詰めて、市民病院へ行く。多治見のケアマネ安井さんが病室へ来てくれたので、今後の打ち合わせ。入院診断書には「二週間程度」とあったので、退院後「ハ・タ・多治見」に戻すかどうかを検討。自分は介助ミスだと確信しているにで、治ったら自宅に戻したいと伝える。
 県立病院まで歩き、昨日の救急処置代1930円を払い、寝巻を返す。
 再度「ハ・リ・多治見」へ行くと、事務室から12月分の請求書を渡される。17万8056円。母の部屋に入り、床を掃除し、ベッドをきちんとメイクし、カーテンを閉め、 しばらく留守という状態にする。ホールで都築さんがじっと自分を見ていたが、無視して出る。うどんを食べて市民病院へ。酸素マスクを付けた母は何かぶつぶつ言っているが、意味不明。しきりに酸素マスクをはずそうとするが、両手を拘束してあるので顔まで届かない。「母ちゃん、苦しいか」と聞いてもごちょごちょ言うだけでわからない。
 午後1時37分の電車で中津川へ戻る。

 

1月17日(木)晴

 朝、父が起きて来ない。寝室を覗くと、まだ寝ている。一瞬ひやっとしたが、声を掛けたら起きた。「もう7時半か」と言う。
 午前10時17分の電車で多治見へ。11時市民病院着。母の病室は明るい陽がさしていた。声を掛けると反応はあるが、何をしゃべっているのかわからない。
ベッドの傍の椅子に座って本を読んでいると、しきりにうわ言を言う。「ごはん食べれんわ」「病気かね」「どうしたね」など、聞き取れる言葉もあるし、「うふふふ」と一人笑いすることもある。
午後1時37分の電車で中津川へ戻る。
夜、「にしの」。11時帰宅。

 
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1月18日(金)晴
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危篤の母に声をかける父
 

 午前9時過ぎ、多治見市民病院から電話。先生がお話することがあるから、すぐ来てくれ、と言われる。嫌な予感。9時49分の電車で多治見へ。山田医師に別室へ呼ばれる。 二枚のレントゲン写真を見せられる。一枚は入院したときのもの。もう一枚は今朝のもの。
 「肺炎が広がっています。あと6時間持つかどうかですから、身内の方に知らせてください」と危篤を宣告される。ついに来たか。それにしても早過ぎる。
 父に電話。弟・史洋に電話。
 母は酸素マスクの下でうわ言を言っている。ベッド脇に計測器が置かれ、一分間の脈拍数が表示されている。180、190、170と増えたり減ったりするが、全力疾走に近い脈拍だ。その数値の下には波線がうねっている。これは何かわからない。看護師に聞いたら、簡単に説明できませんと言われた。母の顔全体が非常に冷たいので、タオルを温めて拭いてやる。
 11時過ぎに父到着。葬斎場の「中津川斎苑」に電話する。父も母も死んだ時はここで通夜、葬儀をすることに決めてあった。今危篤だが、死んだ時、遺体を引取りに多治見まで来てくれるかどうかを聞く。もちろん伺います、との返事。

 
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中津川斎苑の入口
 

 売店であんぱんとお茶を買い、父と病室で昼食。
 母は酸素マスク越しに「いっちまうよー」と叫んでいる。父が「俺や、わかるか」と聞くと「うん、とうちゃん」と答え「いちようはどこや」と言うのでベッドの反対側に行って「ここにおるよ」と怒鳴ると、にこっと笑った。最期になって「いちよう」と呼ぶとは
どういうことなんだろう。今まで知らんふりをしていたのだろうか。死ぬ直前に正気に戻ったのだろうか。
 やがて母は「う〜ん、う〜ん」と唸るだけになり、脈拍数がだんだん下がっていった。唸り声も小さくなった。山田医師が来た。同じ計測器がナースセンターにもあり、状態がわかるようになっていたのだ。

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母の心臓の状態を示す計器
 

 午後2時6分、脈拍数がゼロになり、その下の波線が直線になった。山田医師が「ご臨終」ですと告げた。
 2時半に弟から、名古屋に着いたと電話。もう死んだと伝える。彼は間に合わなかった。
 「ハイリタイヤー多治見」へ「今、死にました」と伝えると「えっ」と驚いていた。安井ケアマネに電話。中津川斎苑に電話。すぐ遺体を引取りに来るとのこと。ついでに今後のスケジュールを決める。幸いというかちょうど空いていたので、今夜は控え室に安置し、19日夕方6時から通夜、20日午前中火葬、午後2時から葬儀とする。
 3時に弟到着。看護師さんが、母に口紅をさし、軽く死化粧してくれたので安らかな顔になった。苦しんで死んだことは明らかなのに、デスマスクはきれいだった。
 4時、中津川斎苑の遺体運搬車着く。キャスターに乗せ、ビニールで包む。父と弟は電車で中津川へ戻り、遺体運搬車には自分だけ同乗する。病院の裏口まで山田医師や看護師さんたちが見送ってくれた。車の中であちこちへ電話。


 中津川に着いてから東町の周辺をゆっくり走ってもらう。本来なら自宅に一度帰るべきだが、細い坂道をキャスターで下るのは無理なので、自宅へは帰さないことに決めてあった。5時頃、上金の中津川斎苑に着く。自宅から歩けるくらい近いが、急坂を上らなければならない場所にある。
 控え室に簡単な祭壇を作り、その前にふとんを敷いて母を寝かせる。エアコンが効いているので母の胸から腹部へドライアイスを乗せ、ふとんを掛ける。顔には白布。その前の小机にロウソク立てと線香立と鉦。一膳飯に箸を立てたものが置かれた。斎苑の人は慣れたもので、てきぱきと事を進めていった。

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母のデスマスク
 

 父と弟が来る。夕食は弟が買って来たいなり寿司。中津川のケアマネージャー垣内さん来る。渡辺洋子さん来る。母の死に顔を見て、みんな泣いていた。自分は少しも泣けないのが不思議だ。これからの段取りのほうが心配だ。斎苑の田口主任がカラー写真のメニューを持って来たので、父と、祭壇、霊柩車、香典返しなどを決めていく。
 8時頃、弟が父を連れて自宅へ帰る。一人ぽっちになったところへ、同級生の熊崎が来てくれて一緒にビールを飲む。熊崎夫人も来る。深夜0時過ぎ、東京から娘の汀が到着したので熊崎夫妻帰る。
 汀と少し話して、午前1時過ぎ、押入れからふとんを出して寝る。二つあった湯沸かし器のふたを開けっぱなしにし、部屋を加湿する。エアコンで喉をやられるのが心配だったからだ。セルシン、デバスなしで眠れた。

 

 

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