【昭和の庭】 小劇場運動

2008.03.03

わんわん物語にも声優出出演した浅沼稲治郎
   

 1960年に、大学で最初に聞いた大きなニュースは「ヌマさんが刺された」というものだった.
 自民党と連立を組んで、村山富市という総理を出したとたんに、見るかげもなく沈んでいったけれど、当時は、社会党はまだ最大の野党であって、浅沼稲次郎という巨漢で、ダミ声の人が西尾末広の後を継いで党首になっていた。


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かつて境内で紅テントの演劇が行われた花園神社(東京都新宿区)

 その巨漢の党首が、党首討論の壇上で、少年・山口二矢に刺されて死んでしまったのだ。浅沼稲次郎は三宅島の生まれで、早稲田大学の出身だった。だから大学にそのニュースが流れたとたんに学内はざわついて、授業は中止になって、教室は浅沼さんの追悼討論会みたいになってしまった。
 ヌマさんは社会党の党首だったのに犬好きで、人気があった。そのころラジオドラマ化されていた、ディズニーの「わんわん物語」では、ブルドッグ役の声優としてその愛嬌のあるダミ声を大いに生かしていた。
 ヌマさんは自宅でも犬を飼っていて「次郎」という名前を付けて、散歩につれて歩いていたが、この次郎がどうしたことか、ヌマさんの死後まったく食事をとらなくなって、やせ細って死んでしまったという話もある。

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 このころから、大学は反日共系の活動が強くなってきて、大学封鎖へとつながってゆく学生劇団でも、その演目に変化が明瞭にあらわれる。「火山灰地」をやっていた劇団がアーサーミラーの「セールスマンの死」、そしてアントン・チェーホフの「三人姉妹」と変わってゆく。
 早稲田には、そのころ多くの学生劇団があったが、自由舞台と劇研が主軸だった。そのいずれの劇団ももうない。「三人姉妹」を大隈講堂で上演したのは自由舞台だが、劇研は「斬られの仙太」を演っていた。「三人姉妹」の演出は鈴木忠志だった。


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早稲田大学の象徴にもなっている大隈講堂

 そのうち、鈴木は学生劇団・自由舞台のOBを中心に、それに現役の学生劇団の主力役者を取り込んで、プロ劇団「自由舞台」を旗揚げする。その時の演目は別役実の「象」で、劇場は俳優座だった。このプロ劇団の創立によって学生劇団・自由舞台は一気に衰退していった。
 このプロ劇団・自由舞台は学生劇団と名称が紛らわしいので、すぐに早稲田小劇場と名前を変える。そして既成の文学座や民芸といった大劇団の向こうを張った格好の小劇場運動のきっかけを作ることにもなる。

 
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 新宿の花園神社の境内で唐十郎の紅テントが公演を始めたのもこのころで、紅テントでは麻赤兒がやぐらの上で呼び込みをやっていたし、根津甚八が宮沢賢治の歌を唄ったりしていた。この赤テントもしばらくすると地元飲食店街の追放運動の波にあっったということで、花園神社境内から追い出される。
 今では神社の石段に座って桜の花を見ているだけでも警備員に追い立てられるから、時代の流れというのは、不思議なものだ。
 一方、「家出のススメ」を書いた寺山修司は天井桟敷を創設して、九条映子らと独自の芝居を始めたし、このころから黒テントなど小劇場が続々と出てきた。
 エピソードとしては、「シクラメンのかほり」の作詞者である小椋桂が、寺山修司の天井桟敷に入団テストを受けに行ったところ、断られて、やむなく銀行に入ったという話がある。小椋は銀行で支店長にまでなったが、銀行は辞めてその後は歌手や作詞活動に専念する。

 
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