【知の庭】
 
2009.7.27 

長宗我部家の謎(27)徳川家康の陰謀
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

血脈のためだけに生きる

山内家の家臣に土下座させられる忍耐

大坂の陣での八尾の合戦は家康の陰謀

長宗我部 友親

 よく聞かれることがある。ときには唐突に。あるいはいかにも興味深そうに、である。「さぞ資産をお持ちでしょうね。お屋敷は広いのでしょう」と。
 ところが、何もないのである。みなさん、戦いに負けて没落した家系の悲惨さをご存じない。特に、戦国時代は政権の奪い合いである。そのためには、容赦なく人を殺す。殺した相手の頭蓋骨を杯にして酒を飲んだ、という織田信長の話もあるくらいである。


高知城

■資産も名も無く
 そうした狂気の戦国世界から、安定政権となった幕藩体制への、流れのなかで崩壊していった、いや崩壊させられた、わが長宗我部家は、家系なのである。
 戦いに負けて国を取り上げられたのだから、資産など何も残るはずがないのである。いや、残っていては命が危ないのである。
 だから、何も残せない。物どころか、名前、出自さえもである。それでなくとも、斬首や、切腹は枚挙にいとまがない。わが家系は、秦の始皇帝から始まってはいるが、きちっと残されているのは、秦河勝の末裔の能俊から始まって、その二十一代が中興の祖、長宗我部元親である。この元親は、京都の土佐屋敷で病死、つまり畳の上で亡くなっているが、その後は、元親の二代目の盛親が別の説もあるが、正史では二条城の前にさらされた後、京都の六条河原で斬首されている。また、大阪の陣の後では、九州の加藤家で庇護されていた盛親の弟、右近太夫が京都に呼び出されて、切腹させられている。また、盛親は自分の兄を、攻めて切腹させている。

 
■精神的な思いのみ
 このように、歴史を追っていくと、悲惨な話ばかり出てくる。だが、そのように家が没落して家系が壊れて消えようとしているとき、そのながく守ってきた自家の歴史を消すまいとするエネルギー、あるいは思いも、強く働く。
 そのため、自分を含めすべてを捨てて、家系のみを残すためだけに、生きようとした人物もいるのである。それは「無」の世界に入り、じっと耐えながら、「血脈を残す」この一点、のみに生きることを決めた人物ということである。
 その無念の心を、思ったとき、没落した栄華が消え去り、身分も、格式も、ましてや経済価値も何もなくなった後の、純粋に家系のみに生きた家の流れを一度検証してみる。また、これも有りか、と考えた。
 それを軸に、そのほかにいくつか残されている、長宗我部の家系も追ってゆき、没落家系が残され、どういきてきたかも、可能な限りみてみようと思った。
 人の生き様や、値打ちなども、少しずつ透けて見えてくるし、何はさておき、人情というか、人の厚き心がよく見えている様な気がする。
 また、逆に、ずるがしこい策謀も浮き彫りになってくるのである。
 その信念の人は島長宗我部家に入っている二代目の「五郎左衛門」である。この人ははっきりいって、謎である。謎だらけであるその名前さえほんとうに「五郎左右衛門」なのかどうか、後からつけた偽名であるかも知れない。疑問符がつく。長宗我部親房、別名島弥九郎親房の子供となっているが、嫡子とするには親房の死亡時期からいって、第一年齢が合わない。「島五郎左衛門」この名前は、正史にはどこにも出てこないのである。


徳川家康

■地獄を見た
 だが、五郎左衛門は地獄を見た。これは事実であろう。大坂の陣、冬夏ともに出陣している。特に、瞼の裏に焼きついて離れないのは、元和元年(1615年)の大坂夏の陣のことである。
 これは、「徳川家康に仕掛けられた陰謀である」、五郎左衛門は、瞬間そう思った。長宗我部家の当主盛親の軍と、藤堂高虎の軍が、激突させられてしまったのである。藤堂軍の指揮者は、長宗我部家の功労者である家老桑名弥次兵衛である。そして、その主力部隊の多くも、藤堂家に再雇用されたかっての長宗我部の家臣たちである。つまり、この戦は、長宗我部の部隊同士の戦いとなってしまっているのである。
 見方を変えれば、長宗我部の残された力を消耗させるために、仕組まれたものといえる。家康の明らかな陰謀である。
 桑名弥次兵衛は、もう戦う気力をなくして、馬上で盛親の軍の槍に八方から串刺しにされて、果てた。盛親自身もこの戦には勝ったものの、勝利感は全く無い。その後の戦闘を、盛親は放棄した。五郎左衛門は、このさまを呆然と見ていて、重傷を負ってしまった。

■盛親最後の頼み
 盛親は、無念の思いの中で、一族である五郎左衛門に、ここを逃れて、土佐に帰ることを進めた。そして、長宗我部一族の血脈を残すことをとるように、命じた。そう思う。
 盛親は、戦場で、面識のある山内忠義に、五郎左衛門の赦免についての願い書を書き、持たせた。
 これはかって、山内家が、長宗我部の領国であった、土佐に入る時、盛親は浦戸城引き取り役の井伊に、抵抗せずに城を明け渡すよう、桑名弥次兵衛ほかの長宗我部家の重臣らに指示した書面を与えている。
 そのことを思い浮かべながら、五郎左衛門の扱いを、忠義に伏して頼んだのである。この盛親の書状についての証拠はない。
 だが、五郎左衛門が、山内忠義からの書状を、大切に持っていたという、記録は残っている。そうした、交流が無ければ、大坂の陣に出陣した長宗我部の血の濃い一族の者が、土佐の城下で生き残っては行けないであろう。


御歩行組

■身を捨てて浮かぶ瀬も
 五郎左衛門は、身を捨てて、入牢五年の生活の後、長宗我部の一族ながら馬にも乗れない御歩行組に入る。そして、負傷して「体健やかならず」(差出書)だが、懸命に山内家の御歩行組の仕事を、四十三年間務めるのである。しかも、長宗我部の名は公には使えない。  
 わずかに使えたのは傍系の、島である。ただ、差出書によると、この間、五郎左衛門は、山内家の御銀方、お台所方などの重要な、仕事についている。
 身分の低い形で、勤めながらもである。このあたりに、この五郎左衛門の正体の一端が垣間見えるのである。忠義には、この五郎左衛門の正体は分かっていた。だが、それを公にはできない理由があったということであろう。
 それで無ければ御歩行組の者に、城主が手紙を出すことはありえないし、単なる長宗我部の家臣の生き残りというだけでは「お台所方」としては、危険すぎて使えないはずである。五郎左衛門と忠義の間には、何らかの心の交流があったということであろう。
 
 とはいうものの、表向きはあくまでも馬にも乗れない、一御歩行組である。城内では、山内の家臣らに土下座せねばならない。それでも五郎左衛門が生き続けたのはなぜなのか。長宗我部の血脈を残すため以外に何があるのだろうか。

【出典】
高知城:wikidhia「高知城」

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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