【知の庭】
 
2009.7.13 

長宗我部家の謎(25)桑名弥次兵衛の悲劇
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

長宗我部軍に討たれた重臣

大坂冬の陣の最大の戦い

無念なり桑名弥次兵衛

長宗我部 友親

 人間は必ず死ぬ。人間にとって確実なことは生まれることと、死ぬことである。とすれば生まれ出てきた人間に残された確実なことは、唯一、死のみとなる。後のことはすべて夢幻と思えばよい。
 そう考えると、まことに哀れな生き方をした人物がいる。もっとも、死ぬ時の思いはその人にしかわからないわけであるから、そう思っているのは私の勝手なのかもしれないが、彼はいかにも壮絶な死を遂げている。戦国時代は、仕えている主君のために死ぬ。だが、主君が代わり旧主が敵となった場合はどうするか。しかも、その旧主は代々仕えてきた家柄である。そこに彼の宿命があった。

■元親の信頼を受ける
 その人の名は、桑名弥次兵衛一孝である。長宗我部元親の三家老の一人で、四国統一から、朝鮮の役などにも参加している。また、長宗我部家の二代目とされていた長男、信親が戦死した戸次川の合戦にも加わり、この時には元親の退路を守るためにしんがりを務めて、しっかりとその役を果たしている。


藤堂高虎の像

 長宗我部の家臣団について、「元親記」には次のように書かれている。

覚世(国親)以後元親卿を取立し家老分の事
吉田備中守(井口城主) 同次郎左衛門尉(井口城備中嫡子) 
久武肥後守(久万城主) 久武兄内蔵助(佐川城主於与州美万討死肥後嫡子) 中島大和守 同名右兵衛尉(讃州植田城主又土州戸波城主) 桑石藤蔵人(中村城主丹後弟) 桑名丹後守(奈半利城主)
江村備後守(江村城主) 吉田伊賀守(上夜須和食城主吉田備中嫡子) 国吉甚左衛門尉(讃州長尾城主又土州大忍城主) 姫倉豊前守(岸本城主) 南岡左衛門太夫(南岡城主) 福富飛騨守(田辺島城主) 馬場因幡守(甫喜山城主)
以上十五人

 この十五人が元親の重臣であった。このほかに「若手の分」として、久武二男内蔵助、そして桑名弥次兵衛尉ら十七人があげられている。
つまり、重臣の中村城主であった桑名藤蔵人の、息子が桑名弥次兵衛である。

 桑名氏はもともと伊勢の平家の出身といわれ、桑名に住んでいたけれど、応仁年間に土佐に来て、長宗我部氏に仕えたとされる。父親の藤蔵人に続いて、弥次兵衛は、元親、盛親二代にわたってよく、家臣として仕えている。
 元親は弥次兵衛の働きを見て、高く評価をしている。つまり元親は、戦においては「弥次兵衛を先手で使え」と言い残すしたといわれる。それがその証拠である。

■関ヶ原でもしんがり 
 関ヶ原の戦に敗れたときは、攻撃を受けながらも、盛親をよく守って、天満の邸まで逃げ延びさせた。
 弥次兵衛は、長宗我部改易の後は、藤堂藩に二千石の高禄で召抱えられた。大坂の陣が起こった際に、盛親の家臣が長宗我部軍への参加を求めてきたが、この時、彼は次のように語ったといわれる。・「関ヶ原で一命をかけて戦うことで、長宗我部家に恩は返した。現在は藤堂家に仕えているが、藤堂家には何もその恩に報いていない。だから、この際は旧主の恩にむくいたいとは考えていない。浪人のみであれば、早速でも大坂城にはせ参じたいけれど」。弥次兵衛の迷っている、苦しい胸中が察せられる話である。

 桑名弥次兵衛は司馬遼太郎が長宗我部盛親の生涯を描いた「戦雲の夢」にも登場する。
 その中では、柳の辻で浪人をする、盛親をかげながら支えているのである。経済、精神の両面にわたってである。

■一領具足の反乱を鎮める
 桑名弥次兵衛は、浦戸城明け渡しの際の調整役も重臣の一人としてかって出ている。浦戸で一領具足らが反乱を計画した際、弥次兵衛はこの反乱の鎮圧に廻る。なぜなら、その時主君の盛親は、関ヶ原の戦での始末について、徳川家康のもとに謝罪に行き、家康の手中にあったのである。そうした事態の中で、国もとで反乱が起こったとしたら、主君の命が危なかったからである。
 そこで一計を案じて、一領具足を土壇場で裏切る格好をとり、浦戸城を受けとりにきた井伊直孝に城を無傷で引き渡す。
だが、彼の取ったこの始末は、長宗我部家、ひいては自分を永く信頼して仕えてきた一領具足たちを裏切る結果となったのである。  
慶長5年(1600年)の城受け渡しの文書には、長宗我部方家老の筆頭に桑名弥次兵衛の名前がある。
 主君の長宗我部元親が、四国統一の指揮を取ってきた浦戸の城を徳川方に渡さざるを得なくなった、桑名弥次兵衛の心中はいかばかりであっただろうか。悲しみに打ち震えたことであろう。だが、一応二代目を継いだ盛親は改易されたとはいえ、大坂で健在である。それだけが、弥次兵衛の心の支えであったであろうか。


津城

■藤堂藩に仕える
 関ヶ原の戦で、天下の大勢は徳川方に決まったものの、まだ戦国が完全に終わったわけではない。そうした時代だからこそ、四国の長宗我部で、勇名を馳せてきた桑名弥次兵衛のもとには、多くの藩主たちから誘いが来た。
 桑名弥次兵衛も多くの家臣を抱えている。彼らを養っていかねば鳴らない。そこで、彼はかねてから懇意であった藤堂家に二千石で召抱えられることになった。これが、彼のその後の運命を決めることになったのである。この時、弥次兵衛のほかにも、桑名又衛門ら桑名一族や、依岡三平(百五十石)ら多くが藤堂家に召抱えとなっている。

 藤堂家に召抱えられた後も、桑名弥次兵衛は、旧主の長宗我部盛親が、京都で浪人となっていたために、その盛親に多くの配慮をしている。司馬遼太郎に、「戦雲の夢」という作品がある。これは盛親の生涯を書いたものだが、盛親が浪人となった時に自らを「幽夢」と呼んでいたことから作品の題に司馬遼太郎は「夢」の一字を入れたのであろう。
 この作中、浪人をしている盛親の所に、桑名弥次兵衛が訪ねてくる場面がある。それを覗いてみよう。

 盛親の世話をしている雲兵衛が盛親を訪ねて来た人がいることを告げる。
「お当てなされ、殿がおよろこびなさるご仁じゃ」
「まさか、桑名弥次兵衛ではあるまいな」
「それ。---」
「なに、まことに弥次兵衛か」
 盛親が思わず大声を出したと同時に、畳があがって弥次兵衛がのそりと出た。出るとそのまま這いすすんで、
「殿。---」
「ほう、ほう、すこしふとったようにみゆるな」
「殿もおふとりなされましたな」
「久しぶりに会うたのに、たがいに妙なあいさつではある」
「まこと。―――」
 ふたりは意味もなく、はじけるように笑った。弥次兵衛は、さて、と言い、
「殿にはつつがのうお暮らしのご様子、大慶しごくに存じ奉る」
「あいさつはよい。それに、いまはお前の殿でもない。それどころか、一介の寺子屋の師匠にすぎぬみだ。」
「なにを申さるる。弥次兵衛、身勝手に主家を立ちのいたとは申せ、譜代相恩の者には相違ござらぬ」

 このような会話が交わされる。藤堂家に使えることになった弥次兵衛だが、旧主への思いは捨てがたく、いろいろ身辺の世話をしているのである。この二人の心のうちがよく出ている場面だと思う。そして、弥次兵衛との間で、次のようなやり取りとなる。

「明かそう。おのれを、わが旧臣としてではなく、藤堂和泉守の家臣としてでもなく、わが友垣としてはなす」
「おお友垣としてな」
 と弥次兵衛は、他愛なく、膝の上のこぶしをにぎって身を震わせた。
「お明かしくださるか」
「別段のことはない。関東、大坂の手切れの場合は、盛親は大阪城に入場して、天下の兵を相手にしてみよう」
「おお、めでたや」
 弥次兵衛は、はげしくふるえた。
「しかし、弥次兵衛。考えてみれば、お前の仕える津の藤堂和泉守は、古くから徳川 殿昵懇の外様である。ゆめ、大坂方に着くとは思えぬゆえ、おそらくわしとおのれは、いつの日か、戦場でまみえることになろう。---そのときは」
「当然でござるわ。そのときは、弥次兵衛、槍をふるって、殿と名誉を競わねばならぬ」
「よい。楽しみにしている」
「それが武士のならいというものでござる」
 とはいったものの、盛親の目は、弥次兵衛の顔に、ひどくさびしげな影が浮かんでいるのを見のがさなかった。

■旧主と衝突
 そして大坂の陣が始まる。
 長宗我部盛親は慶長十九年(1614年)十月七日、旗を揚げて白昼堂々と馬に乗って大阪城に入場するのである。

 問題は、翌年の大阪城の外堀が埋められてしまった後の大坂夏の陣である。この時、長宗我部盛親の軍と桑名弥次兵衛が率いる藤堂軍が八尾で激突してしまうのである。長宗我部勢は旗本三百騎が堤の上に並び、さらに藤堂勢がやってくる道路の両側に兵五百人を折り敷かせている。藤堂兵も八百騎である。


長宗我部盛親が浪人のころ住んでいた太秦あたり。蚕ノ社。

 さきほどの司馬遼太郎の「戦雲の夢」で、大坂夏の陣での最大の戦といえる「八尾の戦」の状況を見てみよう。

 弥次兵衛は、馬をたてなおし、のけぞって、頭上を見あげた。そのとき、不意に盛親の目が、弥次兵衛の目をとらえた。
その目がにやりと笑った。
「殿」
 弥次兵衛は、度をうしなった。まるで子供のように駆けだそうとした。
が、麦畑の土がやわらかい。
 蹄が土にとられ、いったんは落馬し、あわてて馬に乗ったときは、夢のなかで走るようなもどかしさを覚えた。

(中略)

 この合戦における藤堂勢ほど、不利な戦いをした部隊はなかった。上から攻めおろされるうえに、麦畑では馬の運動がきかない。
 しかも、長曾我部兵は、全軍馬をすて、密集して突き入れてきた。
「退くな、ひくな」
 乱軍のなかでわめきあげていた藤堂仁右衛門高刑の声がにわかにやんだ。盛親の侍大将中内惣右衛門の子弥五左衛門の槍にかかって馬が倒れ、落馬したすきに松田与左衛門が首級をあげたのである。
 長曾我部兵は自在に麦畑のなかを駆けまわるうち、
「おう、あれに弥次兵衛どのがござるぞ」
「いずれに」
「声を上げたのは、いずれも土佐の旧臣たちである。
 弥次兵衛はすでに覚悟を決めていた。馬上からさわやかに笑いかけながら、
「いかにも、わしは、桑名弥次兵衛」
 長曾我部兵はいっせいにむらがった。
「それ、この者は旧主に槍をむける曲者ぞ。押し包んで討て」
「討てるものなら、討つがよし」
 弥次兵衛はゆっくりと馬を旋回させながら、微笑をつづけている。
 それを、盛親は堤の上から見おろしていた。
 弥次兵衛は、盛親をみあげた。
(うむ)
 盛親がうなずき、同時に双方が、はじけるような微笑をかわした。どちらの顔にも、むかし相撲をとった少年のころの幼さがのぞいていた。
「殿、弥次兵衛の働きをご覧じろ」
「おう、見ていようわ」
 弥次兵衛は馬をたてなおし、両手をあげ、槍を頭上にかざした奇妙な姿勢のまま、だっと長曾我部勢の真っ只中に駆け入った。
「それ」
 馬の両側から伸びた五本の槍が、いっせいに弥次兵衛の両わきを突きあげた。その穂さきにかかって弥次兵衛の体は三度空中に突きあげられ、やがて、どさりと地上に落ちた。弥次兵衛は、戦わずして自殺をしたのである。

 桑名弥次兵衛は、このように果てたのである。首を取ったのは長宗我部の家臣の近藤長兵衛といわれている。長宗我部家の重臣として、代々仕えてきたにもかかわらず、弥次兵衛は長宗我部軍の手で討たれたのである。弥次兵衛とその一族の墓は八尾市本町の常光寺にある。


四万十川。弥次兵衛は土佐中村(現・四万十市)に住んでいた。

 さて、桑名弥次兵衛は、馬上でかっての主君である長宗我部盛親と目があった時、いったいどういう思いが、その脳裏をよぎったであろう。それには司馬遼太郎が、ひと筋の複線を残している。
 それは、旧主との再開の際に、盛親にめあわせた「主水(「千法師)」である。
 土佐の長宗我部は秦始皇帝を遠祖ともする秦一族である。秦一族は世が乱れた時は必ず現れて、その平定、平安を望む仕事をしてきた。この大坂の陣はどう見ても、すでに徳川の世が出来上がっており、大坂方に勝ち目はない。とすれば、盛親もこの場を逃がれない限り、消え去るしかないであろう。
 だが、元親には五男、四女がいたが、もう一人男の子がいた、それが主水である、と司馬遼太郎は記している。しかも、その主水は、桑名弥次兵衛の末流だが、縁続きの女と元親の間に生まれたとある。そして、弥次兵衛はこの主水を柳の辻の盛親の家で、密かに引き合わせている。
 そして、この主水は「お兄上のお旗あげおりでもあらば、お人数のはしくれにでも加えていただきとう存じます」と、盛親に申し入れている。
この主水について、司馬遼太郎がその存在を、どこから引き出してきたかはわからない。
 長宗我部の系図には、五男が小少将との間の子で、右近太夫とあるが、もう一人いると言われている男子については記述がない。だが、元親の父親である国親も家臣筋の室との間に男子を設けている。これが島長宗我部家である。晩年の元親が子をもうけていても不思議ではない。
 それが、弥次兵衛との縁続きで、盛親に従っていたとすれば、その子が長宗我部と桑名弥次兵衛の血筋を残していく可能性は大いにあるわけで、そうであれば、いつの日かまた、秦一族の血がよみがえることがあろう。それこそが、大坂の陣の最後の、馬上でかっての主君の目を見つめながら弥次兵衛が思い、願ったことではなかったであろうか。少なくとも、司馬遼太郎の作品「戦雲の夢」では、そのように読み取れる。

【出典】
藤堂高虎:フリー百科事典wikipedia「藤堂高虎」
四万十川:四万十市HP

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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