【知の庭】
 
2009.7.6 

長宗我部家の謎(24)養甫尼と七色紙
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

元親の妹、養甫尼が供養に埋めた袂石

夫と子供を兄に殺される

土佐和紙に隠された悲劇

長宗我部 友親

 美人との誉れ高い織田信長の妹、お市は浅井長政の正室となった。そして、その夫婦仲は人が羨むほどよかった。ところが、そこに悲劇が起こる。浅井長政は織田信長と同盟を結んでいたが、浅井家が長く関係が深かった朝倉義景を信長が攻める。


仁淀川

■お市の方
 このため、浅井長政は信長と敵対することになり、義景が、姉川の戦いで敗れた後、浅井の小谷城は信長に攻め落とされる。この小谷城の戦いで、お市の夫、長政とその父親である久政も、ともども自害して果てる。お市は信長によって、江、初、茶々の3人の娘とともに助け出されるが、長男の万福丸は兄の信長によって殺害されてしまう。

 戦国時代にはよくあった話だが、長宗我部元親が土佐、そして四国統一を進めてゆく過程においても、このような悲劇はいくつか起こっている。その一つが、いのの波川城と鎌田城での出来事である。
 これらの城は、あの映画「サード」を撮った東陽一監督が「四万十川よりもきれいだ」と語っていた仁淀川のほとりにあった。東監督はこの自ら美しいといった川を舞台にして「僕の絵の中の村」というすばらしい作品を製作している。
 この仁淀川の上流に、土佐和紙の里と呼ばれる所がある。徳川将軍にも献上する和紙を作っていた。
 
■伊予を攻めた元親
 話は元親が阿波国の制圧に入ったころのことである。元親は土佐の統一を果たして、天正三年(1577年)に阿波に進出。間髪をいれずに翌四年(1578年)には伊予に進出していった。このころ北伊予は河野通直が治めていた。元親は、阿波に続いて一気にこの河野攻めに出たが、「いよいよ長宗我部が来た」、ということで、中国地方に勢力を張っていた毛利、小笠原の両氏に助けを求めた。それに応じて、小早川隆景は一万の兵を持って、四国に渡ってきた。
 長宗我部軍は、大野直之を大将にして、攻めたが形勢は不利であった。このため、元親は妹婿であった波川玄藩清宗を援軍として出すことにした。
 玄藩はこれを受けて、伊予での戦いに参加したが、戦局は一向に好転せず、一進一退を繰り返すだけであった。そうした戦の流れをみて、巧みにも小笠原は玄藩に一時休戦を誘う使いを出したのである。
 長引く戦に疲労していた玄藩は、うかつにもこれに乗ってしまう。だが、それは小笠原の卑劣な策略であった。小笠原軍は玄藩が引いたところを見計らって河野軍を攻め立てた。このためこの伊予での戦で長宗我部軍は敗れ、大きな損害を受ける。
 
 軽率な玄藩の動きは、当然総指揮を取っていた元親の叱責を受けることになる。玄藩は、これを機に中村の山路の城から引き揚げさせられ、波川城に戻されることになる。
 これが、波川玄藩のつまずきの最初となる。 


土佐和紙

■評判が良くなかった玄藩
 だが、この波川玄藩は、もともとひごろの行いについて、あまり評判が良くなかった。時の権力者である元親の威勢をかって、あるまじきふるまいをしているというのである。 そのあたりについて、土佐物語の記述を見てみよう。

 玄藩は本領波川に帰り、世上の面目を失ひ、人口を塞ぐに所なければ、人来たれども対面せず、居城波川奥谷葛城の嶺に籠居して居たりけるが、己が不義をばかへりみず、「我誤りなくして山路の城を取り上げらるる事、生涯の恥辱これに過ぎず。察するにざん者の所為と覚えたり。然るに実否の糾明もなく、罪を我に帰せらるるこそ遺恨なれ、所詮元親に思ひ知らせん」と、ひそかに謀反を企て、四州の城々へ廻し文をぞ遣はしける。

 この土佐物語は、さらに玄藩の諸行について「玄藩いつしか心侈り、酒宴博奕淫乱を事とし、鷹狩り鹿狩りに日を暮らし、諸士に対して無礼を尽くし、郷民を虐げ、万我意に任せて行跡へば、上下爪弾きをしてぞ疎みける。」と書いている。
 相当玄藩は世の批判を受けていた。その理由は元親の妹を妻に貰っていたことから、元親の威を借りているということである。
 しかし、今度はその元親に叱責されたのである。そこで玄藩は逆恨みをして、「四州の城々に廻し文をぞ遣わしける」、という動きに出てしまったということである。これは謀反である。しかも、この玄藩の呼びかけに応ずるものは一人も無かった。
 
 そこで、玄藩は元親にこの謀反が知られてしまうことを怖れて、先回りをした。阿波を経由して、高野山に逃げることを考え、当時海部城主であった元親の弟の香宗我部親泰のところに助けを求めてゆく。しかし、それを知った元親は、親泰に玄藩の切腹を命ずる。


養甫尼が夫や子らと楽しく過ごした城址が眺められる場所。ここに袂石を埋めた。

■鎌田城焼け落ちる
 だが、戦国時代である。謀反ということになると、問題は張本人である玄藩一人の死だけでは事態は収まらないのである。玄藩の長男、弥次郎と次男の虎王ら一族郎党も追われる身となってしまう。
 元親は、玄藩の一族郎党をことごとく見せしめのために滅ぼすよう、指令を出す。弥一郎、虎王はそれを知り、仁淀川の流域にある鎌田城に籠もって元親軍と戦ったのである。結局、城は焼け落ちて、二人とも討ち死にをする。これが鎌田城の合戦であるが、この犠牲者の墓は、いのの本願寺にある。
 一面、波川玄藩の謀反は、四国統一途上の長宗我部元親が、足元の土佐の地盤を固めるために、わざと火種を大きくして、見せしめ的に利用した、ということも考えられないことはない。

 一方、元親の妹である玄藩の室は、鎌田城が焼け落ちる数日前に城の下の土居屋敷を後にして、仁淀川をさかのぼって逃げる。乳母に玄藩の三男でまだ幼少の千味を背負わせて、闇にまぎれての行動だった。
 土地の者の助けをかりて、渦の谷の上手の浅瀬を渡って逃げ延びた。この浅瀬は流れの変化の少ない所で、土地の者にしかわからない場所だという。鎌田城が落ちたのは、天正八年(1580年)五月二十八日のことである。この戦で、戦死したのは弥次郎、虎王のほか、玄藩の弟の五郎太夫、家臣の寺田源助らであった。

■川原の石を運ぶ
 逃げ延びたものの、長宗我部元親の妹、波川玄藩の室は、このあまりの悲劇に尼となり、慶儒院養甫(養甫尼)と号し、一時は成山地区に身を隠していた。しかし、手を尽くしてこれを探し出した元親から、養甫尼は土地を与えられ、千味を育てるとともに、夫や子らの供養を続けた。
 当時の元親地検帳には次のように記されている。

下外内下の段二か所一つにして六十坪、別に七十八坪成山本村 養甫尼様持

 養甫尼を探し出した元親は、自分のもとに戻るように誘ったが、養甫尼はこれを固辞して、助けた三男の千味とともに成山にとどまる事を選んだのである。
 養甫尼がこの成山で行った供養は驚くべき行為であった。つまり、仁淀川の川石を袂に入れて、仁淀川沿いの「うばが森」まで上り、その地から夫や子らがかって住んでいた城を眺めて祈り、そこまで運んだ川石をその地に連日埋めていたのである。

 仁淀川に沈んでいる石、あるいは川辺の石は、長年川の流れに洗われて角がなくなり、平らになっている。また、その色も緑、青、黄、橙、黒、あるいは白とさまざまである。養甫尼は、それらの石の中で小ぶりなものを袂に入れて、山上に運んだ。男でも大変な山道を日々石を抱いて登ったのである。
 そして、夫や子供らと楽しく暮らした城址を眺められるところを探し当てて、その場所で一日を過ごし、供養したことであろう。

 この養甫尼の供養については、紙の里、いのに、言い伝えとして現代まで残されていた。それを、執拗に実証した人がいて、彼女の埋めた石が最近見つかり、その地に、地元の有志によって供養碑が建てられた。川石が山の上から、かずえ切れないほど、出てきた。


養甫尼の碑

■紙すきの技術を開発する
 また、養甫尼は、いのの七色紙など、紙の産業についても功績を残している。もともと、いのは紙の原料となるミツマタが採れる地である。そのこともあり、紙の生産に養甫尼はかかわってゆくが、これを手助けする重要な人物が二人いた。その一人が元親が滅ぼした安芸の国虎の次男、安芸三郎左衛門家友(幼名、鉄之助)である。
 長宗我部元親が、強敵安芸の国虎を攻めたのは永禄十二年(1569年)七月である。香宗我部左近太夫(親泰)、吉良左京進(親貞)が安芸氏の枝城をまず攻めて、戦いは始まり、激しい攻防戦の末、安芸国虎は城を出て浄貞寺で自害した。長男の千寿丸は阿波に逃れ、この時八歳だった鉄之助(家友)がめぐりめぐって養甫尼のもとにやってくることになる。
 安芸の国虎は、元親の土佐統一の中で、最大の強敵だったといえよう。安芸は三菱財閥の生みの親である岩崎弥太郎の生家のある所でもある。広い耕作地を持ち、林業もある。この安芸の国虎を攻略するために、元親は内部から裏切り者を出したり、飲料用の井戸に毒を入れたという噂をばらまいたり、さまざまな手を打っている。

 この安芸の国虎の三男、家友のほかにもう一人、養甫尼のもとにやってきた男がいる。それが伊予の日向谷村から流れてきたといわれる新之丞である。彼は成山にはそれまでになかった全く新しい紙のすき方を知っていて、それを養甫尼、そして家友に教え、またそれをもとに彼らはさらに進んだ土佐和紙の技術を開発していった。そこで生まれたのが土佐の七色紙だった。
 七色とは黄色、浅黄色、紫色、萌黄色、柿色、青色である。
 この土佐和紙は、いのばかりではなく、山内藩の産業としても、重要なものに育ってゆき、将軍家にも献上される。


新之丞の碑

■新之丞を斬る
 ところが、新之丞は、ある日、突然そろそろ、いのを去り伊予に帰りたいと告げる。この一言がまた、悲劇を生むのである。
 新之丞が、いのを去りたいと伝えたその時は、もうすでに彼らが作った土佐和紙は山内藩にとっては「門外不出」といわれるほどの重要な技術になっていたのである。そこで、山内藩は、新之丞を斬るように、安芸家友に、伝える。
 やむなく、家友は途中の峠まで送るといって、新之丞をだまして、それまでともに土佐和紙を作ってきた友人を斬ってしまう。新之丞が死んだこの峠には、新之丞の碑が建てられている。その内容は次のようになっている。

 言い伝えによると、新之丞は、伊予国(愛媛県)宇和郡日向谷村の人で、慶長の初め頃、成山村に来て、紙をすく方法を教え、数年後国に帰る途中坂の峠で安芸三郎左衛門に殺される。
 それは紙すきの方法がよその土地にもれることを防ぎ、村民の利益を守ろうとする戦国時代のならわしであった。その後、土佐の製紙業が急にさかんになったのは、あなたの力があってこそ、長い年月人々の同情があなたに集まり春も秋も花が絶えず、真心を捧げここに記念碑を建てあなたの手がらをのちのちまでも伝えたいと思います。
  大正五年九月

【出典】
仁淀川:フリー百科事典wikipedhia「仁淀川」

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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