【知の庭】
 
2009.6.29 

長宗我部家の謎(23)秦一族
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

秦一族は乱世に現れる

「チャンスカメ」と呼ばれたことも

徹底的に憎まれるのは、わが苗字の音の響きゆえ?

長宗我部 友親

 「ちょうそがべともちか」と、自分で何度か自分の名前を呼んでみる。しっくりこない。地に足が着く感じがしないのである。自分の名前でありながら、なんだかほかの人のものの、ようだ。しっくり来ない。そんな、浮いたような人生をずっと送ってきた。
 長宗我部と名乗っても、戦国時代ならばともかくも、現代ではなかなかわかってはもらえない。学生時代にアルバイトをしていた時などは、「誰だ。苗字を書けといったのに下の名前まで書いたやつは」。あるケーキ製造会社で怒鳴りつけられた。「それは苗字だけですが」と、反論はしたものの、いやぁな気分にさせられた。


雪渓寺は長宗我部の菩提寺

 最近はダイヤルインにほとんどがなったが、少し前までは交換手がつなぐ代表電話が主流だった。その場合、交換手は電話をかけてきた相手の会社や名前を聞くけれど、それはほとんど儀式みたいなもので、実際につなぐ自社の相手には、改めて「○○さんから電話です」とはていねいにはつながない。
 だから、佐藤とか、鈴木ならよいけれど、自分は「長短の長に、宗教の宗に、とか」交換の人に字解しなければならない。そうして、やっとこさでつないでもらっても、出てきた人に、また改めて字解を始めなければならないのである。人生、大変な苦労をして生きてきたわけです。
 
■取材で得をした
 それでもお年を召した学のありそうな人に出会うと、「昔どっかで聞いたような名前ですね」という言葉が返ってくる。「四国かなんかにいませんでした」とまで入ってくる人は、超まれな方だ。
 共同通信の記者をしていた時のことだが、かってさくら銀行(現在、三井住友銀行)の頭取をしていた小山五郎(故人)さんにお会いした時は、長宗我部の名前だけで、一時間ほど話をした上に、三井銀行と太陽神戸銀行が合併した際のいきさつ、秘話まで取材させてもらった。
 さくら銀行はご存知のように太陽神戸銀行と三井銀行がひとつになったわけだが、そのまえに、小山さんは三井銀行と三和銀行との合併を相当深く探っていたそうだ。
 これがなぜつぶれたかというと、小山さんによると、やはり三和側に三井と一緒になると、合併当時は資金量も、人員も三和が上だが、なんといっても日本を代表する大財閥の三井のこと。ゆくゆくはのみ込まれてしまうという恐怖感があって、ぎりぎりのところでつぶれた、ということのようだ。
 当時総理だった肥後熊本の城主の血筋の細川護煕さんについては、やはりパフォーマンスばかりが先立って経済対策など実行力のない総理にかなり嫌気がさしてきていた、といったことも話していた。あの時点では細川さんが「やめたい」といわなくとも、小山さんだけでなく、財界サイドには細川離れが進んでいたというわけだ。
 
 これは名前で、得をしたという話ですが、しかし、まずいこともあります。悪いことがしにくい、できないということだ。いったん長宗我部の名前を覚えられると、簡単には忘れてもらえない。
 特に、女性は一度「この人、気に入らない」と思うと、「あの長宗我部は」という感じで、「長宗我部」のもっている特有の音の響きなのか、憎さに輪がかかって、名前故に必要以上に嫌われたことがあるような気がする。
 「お前の性格が悪いのだろう」と、いう意見も少しは受け入れざるをえない。しかし、最後に濁音が続く「がべ」というところが悪人に対する発音として、発声し易いのではないだろうか。
 細川家十八代のあの細川さんが総理をやめたくなったのも、好きなことができない、焼き鳥屋に行けないし、自由に好きな女性とも会えない。かなりの発展家かだったようですから。それで総理がいやになったとの噂も聞いていますが、私の場合はそこまではいかない。しかし、まあいったん覚えられると、簡単には忘れてはもらえない名前ですから困ることも多いわけです。
 
■羽田孜さんも秦一族 
 細川家の中興の祖が細川幽斎であったように、長宗我部家の中興の祖は長宗我部元親ということになる。細川護煕さんは幽斎から十八代ということですが、系図上では自分は元親の末弟の長宗我部弥九郎親房から十七代ということになる。           
 昭和四年(一九二九年)には、自分のおじいさんの林馬の所に、天皇の使いとして差し向けられた当時の高知県知事の大島破竹郎さんから、元親に対する「正三位」の位をもらっている。
 つまり、元親の直系は司馬遼太郎さんが言うように元親の代を継いだ盛親が京都六条川原での斬首により「露と消えた」わけですが、後で述べますが一応宮内省は、傍系ではあるが、親房を継ぐ林馬を長宗我部家の末裔としたということでしょう。

 その系図を見ると、いかにわが家が血塗られた家系であるかがよくわかる。私自身は見てもらったことはないけれど、親戚とか周辺のものが私について占い師に尋ねると、写真を見ながらこの肩のあたりに亡霊がたくさんついている、といったことをよくいわれるそうだ。
 系図を振り返ると、関ヶ原に至る前にも、四国統一にむけての殺戮のくり返し。関ヶ原以降は、徳川家康の陰謀によりわが家は滅亡したわけですから、惨憺たるものです。


羽田孜さんも秦一族?

 ところで、世界史で見ると、嵐のマルタ島で、米ソ首脳、つまりレーガンとゴルバチョフが会談して以来、東西の冷戦関係が平成二年(一九九〇年)に終焉。ベルリンの壁が壊れ、翌九一年にはソ連邦が崩壊し、日本も大きく変動の波の中に入った。そして、日本では平成五年(一九九三年)の八月に、日本新党を軸とする連立政権が誕生した。
 この流れの中で、日本の首相になったのは細川護熙だ。この細川、その次に首相になった羽田孜、そして細川さんの前の前の首相の海部俊樹のいずれもがこの長宗我部家とはなんらかの縁があるのです。
 そして、戦国時代で、あれだけ力をつけた長宗我部家がなぜ、日本史から姿を消してしまったのか。徳川家康はなぜ長宗我部家を恐れたのか。そのあたりの謎を、解くことは非常に興味のあるところです。
 
 秦神社という名前の神社が高知市の長浜にある雪渓寺に隣接してあります。
 雪渓寺は四国お遍路さんの順路になっているから、ご存知の方も多いでしょう。ですが、その隣の秦神社は長宗我部元親を祭ってある神社ですが、余り知られていません。
 というより、今は社も古くなり、その存続さえ怪しくなってきています。
 そういうことは別にしても、高知に「秦」を名のる、神社があるということは歴史的に見ても非常に興味のあることです。
 かって「キネマの天地」という映画があったけれど、あれは松竹、大船が舞台でしたが、もう一つ日本映画を支えている土地が「太秦」だ。この太秦というところが土佐の長宗我部に直結する可能性を持った土地なのです。
 
■京都の太秦にも縁が
 「太秦」という地名、を思い浮かべてください。おかしな当て字ですが「太い秦」と表記している。つまり、秦神社と同じ「秦」の字を使っている。
 先程申しました昭和四年の一月二八日に天皇の勅使が見えた際に、献上した長宗我部家の系図をさかのぼってゆくと、「秦河勝」という人物に行き当たります。これは大河の「河」を使う場合と、「川」を使う場合がありますが、日本書記は「河勝」です。
 弘文六年(八一五年)に編纂された当時の氏族の台帳といわれる「新撰姓氏録」(しんせんしょうじろく)によると、秦氏の姓は西日本に多く存在している。
奈良時代前の人名を記した「日本古代人名事典」によると、「土佐の国吾川群」とある、これが長宗我部につながるのではないかと考えられる。

 秦の呼称については、

一、秦氏は機織りのはたからきている。
一、朝鮮語の「海」PATA PADAがはたに通ずることなどもあるが、もっとも有力なのはさきの「新撰姓氏録」のなかに秦王の奉るところの糸・綿・絹。朕が服用するに柔らかにして、肌に温かし。姓を波田公と賜う。

とある。

 また、古語拾遺(807年)では「波陀」の文字を使っている。

 わが家の系図には、「普洞王」」の項目に「仁徳定姓波陀君姓を賜う。後秦を称す」とある。
 
 ところで、細川さんの後、平成六年(一九九四年)に総理になった羽田孜さんですが、彼は「はた」との読みだけれど、本当は「はだ」ではないか、と思われる。
 羽田さんも伝聞ですが、本人の説明によると、わが家と同様に「秦の始皇帝伝説が羽田家に残っている」そうだ。羽田さんは長野県上田市和田村の出身ですが、そこには羽田姓の家が六十軒ほどもあるそうで、先祖の墓には、秦と刻まれているそうだ。
 信州には秦一族がいたという例は先の「新撰姓氏録」にない。
 もう一つは、和歌山県から移り住んだといわれているので、中国大陸から不老不死の薬を捜し求めて新宮のあたりに漂着したといわれる徐福の一族の流れをくんでいるかもしれないという説もある。徐福一族も秦姓を名乗っている。
 この徐福伝説は日本に根強く残っている話で、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)などの暴政を敷いていた秦始皇帝が不老不死の薬を捜して派遣したのが、徐福といわれている。始皇帝は紀元前二五九年から二二〇年の人物だ。一説には周辺の人を次々と殺していく始皇帝の暴政に、徐福はたまりかねて、自らありもしない不老長寿の薬を求めて、大陸を離れることを思いつき、大きな船に自らの一族郎党を乗せて脱出を図ったとも言われている。したがって徐福には中国に戻る意志は最初からなく、たどり着いた日本を永住の地としたというわけだ。

■殿上人に昇格
 もう一つ、読み方について、長宗我部を「チャンスカメ」と読んだという説がある。
 これは幕末のころの土佐の国学者の楠目盛徳が「手抄」という随筆に「長宗我部殿はチャンスカメと訓(よ)みける由」と書いている。これは土佐の歴史に詳しい平尾道隆の受け売りでもあるのだが、「面白いな」と思って記憶している。
 だって、「チャンス」に、万年も生きる「カメ」である。その二つをくっつけたような読み方だ。不運の家系が、そんな読み方をすると、一気に浮上するかもしれない。一時期はわざと自分から「チャンスカメです」と名乗ったこともあったが、やはり話がごちゃごちゃになって、ややこしいので、すぐこの訓(よ)みは、やめた。

 当家に残っている文書類は、昭和のはじめに、土佐の歴史に詳しく書家でもあった寺石正路が、長宗我部家の系図を整理する際に、寺石氏に預け、その多くが寺石氏経由で博物館などに寄贈されたので、自分の家に現在残っているものは少ない。
 
 寺石氏は、私の祖父であり、長宗我部の居合い術「精参流」を基に編み出した剣詩舞の創始者でもある長宗我部林馬に依頼されて、秦長宗我部氏の系図をまとめたのである。
 昭和三年(一九二九年)に昭和天皇の即位の大典が行われ、その際に長宗我部元親の追贈が決まった。従四位から正三位に位が上がったのである。
 その贈位書を正式に手渡すために、長宗我部家を継いでいた林馬のところに、当時の陸軍記念日であった昭和四年の三月十日に、大島破竹郎氏が天皇の勅使としてやってきた。

 この儀式にいたるまでに、宮内省に、系図をはじめ多くの資料を届ける必要があった。その作業に、多くの労をとって支援してくれたのが、寺石正路である。寺石は当家に残されていた資料を基に秦長宗我部家の系図を、整理、改めて編纂し、それを林馬が宮内省に差し出したのである。
 この作業には大変な努力が必要だったようで、寺石からの林馬宛の書簡で、それがうかがえる。
林馬に宛てた書簡に添えられた寺石の歌に次のような、ものがある。

 冬籠もり 花のいろいろ 咲きそろい
 君の恵みに 春をこそまて

 この歌の添え書きに
 「昭和3年の暮 長宗我部林馬君から水仙、福寿草、ボケの鉢を恵まれたるを謝して」とある。

 祖父が、盆栽を趣味としていたのは、祖父が残したものから「つつじの鉢についての品格」などの資料が出てきていることからもうかがえる。


嵐のマルタ島で米ソ首脳が会談した

■動乱の時に現れて活躍
 ところで、「チャンスカメ」の話に戻るが、つまりこうである。長宗我部というのはこの読みのほかに、表記でも違いがある。つまり、「長宗我部」との書き方と、「長曾我部」の書き方である。また、「秦長宗我部」というときもあり、元親は「秦元親」と表記していた史実もある。
 つまり、いろんな表記が長宗我部にはあるのである。読みかたについても、「ちょうそがべ」、というのと「ちょうそかべ」という読みがある。どれが正しいのか。広く言えばすべて正しいのである。ただ、土佐では「ちょうそがべ」とにごる読み方が伝統的である。父親も、林馬から聞いて「ちょうそがべ」と言っていたし、香曾我部も「こうそがべ」と「が」の音で読んでいる。
 また、伝統的には「長宗我部が多く、わが家でも主として「長宗我部」としていることもあって、最近では、自分は長宗我部(ちょうそがべ)に統一した。また、系図も長宗我部の表記になっている。しかし、司馬遼太郎は「長曾我部」と書いている。

■秦一族の役割
 一方、秦一族は、秦河勝が聖徳太子に仕えて、物部守屋を討って、時の動乱を鎮めたように、世の中が大きく動くときに現われて、何らかの役割を果たす、との言い伝えがある。明治維新を推進した薩摩の島津家は隠れ秦といわれ、幕末に活躍した坂本竜馬は長宗我部の家臣筋である。
 東西ドイツが統一され、ソ連邦が崩壊し、世界史が変わり、世界同時不況が進行している。また、環境面では、地球環境の崩壊ということまでいわれ始めている。
 二一世紀という新しい世紀が動き始めた現代に至り、再び秦一族が現れて、時代の転換点で、一つの役割を果たすかもしれない。長宗我部はそういう秦一族なのである。

【出典】
羽田孜: 羽田孜公式HP
マルタ会談:wikipedia

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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