【知の庭】
 
2009.6.22 

長宗我部家の謎(22)勝瑞城と小少将
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

阿波制圧の裏に絶世の美女

瀬戸内海に向かう要衝、勝瑞城の女城主

土佐に行き、元親の側室となり一子をもうける

長宗我部 友親

 「人間五十年 化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を受け滅っせぬ者のあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
 世阿弥の作といわれる幸若舞の「敦盛」の中の一節である。織田信長が好んで舞ったといわれる。明智光秀とその重臣の斎藤利光が本能寺を攻めた天正十年(1582年)の際も、光秀の旗印を確認した信長は覚悟を決め、この「敦盛」を舞って本能寺の奥の部屋に消えていく、という場面がよく舞台などで描かれる。


勝瑞城跡。今はほとんど何も残っていない。ただ説明版がひとつあっただけだった。

■勝瑞城の女城主
 この織田信長は、五十前に亡くなっているが、その子供は男子が信忠、信雄、信孝ら十二人、女子が徳姫、冬姫ら十人と多く、妻である正室の濃姫(斎藤道三の娘)のほかに側室にも生駒家宗の娘、お鍋の方らがいた。戦国時代は、子供を養子や養女に出して、勢力を広げてゆく政略結婚が多かったし、病気による若死にもあったので、側室を持って、子供を増やすことは当たり前であった。

 ところが、長宗我部元親は、その性格が気まじめであったのか、側室の記録は一人しか残っていない。子供は男子が信親、親孝、親忠、盛親の四人で、女子が吉良親実室、佐竹蔵人親直室、吉松十右衛門室の三人である。
 側室の一人というのが、阿波の勝瑞城の女城主ともいわれている小少将で、その小少将に一人、右近太夫という子供がいるが、このほかにももう一人、晩年に生まれた男子がいたという説があるが、その母も小少将なのか、ほかのだれであるか、定かではない。

 この元親の側室である小少将はどこからきたのか。その出生などについての記録はほとんど残っていない。ただ、阿波の勝瑞城の記録の中に、小少将の名前が確認される。そして、阿波随一の要衝といわれた勝瑞城を落とした元親が、その女城主といわれた小少将を連れて、土佐に帰っていったという説はある。
この勝瑞城攻めをした際の天正十年(1582年)は、元親四十四歳である。そして、小少将は正確な年齢は分からないが、五十歳前後にはなっている。つまり、元親にとっては、年上の女ということになる。年上であっても、小少将についての評判は、「絶世の美女」とか、「妖艶」とかいわれている。女の魅力がかなりあったようだ。とすれば年上であっても、元親の心を動かすものがあったのであろう。

 小少将がいた勝瑞城は、四国三郎とも呼ばれる吉野川(別名、中富川)が、河口で二つに分かれた三角州のようなところにあった。吉野川はよく暴れて洪水を起こしており、攻めるにも難しい城であった。元親もこの城を攻めるのに苦労し、かつ慎重にかかっている。軍勢も最終的には二万三千を繰り出しているので、おそらく土佐と阿波の狭い国境の山道は、山越えをする長宗我部の軍勢でさぞかし混乱したことであろう。


藍の生産をしている藍住町

■藍の町
 勝瑞城は、南北朝の戦乱期に、守護であった細川詮春が、守護所を秋月城(土成町)から、現在の板野郡藍住町に移し「勝瑞城」とした。平城である。吉野川の河口に造られたということは、船を使って吉野川を通って、瀬戸内海に容易に抜けられたわけで、京、大阪への人や物資の輸送を狙った、非常に重要なポジションにあった城といってよい。

 また、地名からでもわかるように、このあたりはあの藍染の原料である藍の産地である。先にも述べたように吉野川の氾濫がよくあって、コメは育ちにくい。だから、地元では藍を奨励していて、藍で繁栄の基礎を作った土地柄である。
阿波の藍は、平安時代の書である「延喜式」にも記述があり、南北朝の時代にはすでに大量生産されていた。
 だが、藍の加工技術が阿波に導入されたのは戦国時代の末期といわれ、それまではひたすら葉を生産するのみであったようだ。この加工技術は青野四郎兵衛が、堺から持ち込んだといわれている。
 こうしたことから、小少将はちょうど藍の加工技術が阿波に入ってくるころに、生きた女性である。

■持隆が見初める
 勝瑞城には、足利一族の政権構想に深くかかわっていた細川一族の細川持隆が城主の時に、小少将が登場する。持隆は京都を好んでいたため、あまり勝瑞城には帰らなかった。 だが、たまたま帰城した際に、吉野川をさか上った所にあった西条東城に行く。その時に、その城主である岡本美作守道牧の娘に目がとまった。

 「目の覚めるような美少女であった」といわれる。小少将が十五歳のころのことだ。持隆が気に入っていることに気づいた道牧は、その娘を、持隆に取り入るために差し出す。持隆は小少将を寵愛した。しかし、京都を好んでいた持隆は、勝瑞城を家臣の三好義賢に任せっぱなしにしていたため、このことが結局悲劇を生むことになる。


四国三郎といわれている吉野の川

 足利将軍と通じての政治的画策などにかかわっていた持隆から勝瑞城の政治を預かっていたのは、三好義賢であった。その義賢は長宗我部が勢力をのばしてきていることを警戒して、留守がちで、中央ばかりを気にしている持隆に批判的であった。「まず、足元の阿波を固めてゆくことが先決である」というのが義賢の考えであった。
 しかも、義賢はまだ二十代で、磊落な性格だったという。小少将は公家意識の強い細川持隆よりも、いつもそばにいて政務をとっている三好義賢に惹かれるようになっていく。あるいは義賢が小少将の色香に迷ったのかもしれないが、とにかく二人は、みるみる深い関係になっていってしまう。
 そんな男女関係が、ばれるのは当然である。怒った持隆は、見性寺に義賢を呼び出して処罰しようとした。しかし、これを内通するものがあり、義賢は逆に持隆を、二千の兵で、見性寺に襲って、討ち取ってしまう。これが天文二十一年(1552年)に起こった見性寺の乱である。勝瑞城は、現在は吉野川の泥に埋まって、ほとんど痕跡をとどめていないが、この見性寺は四国九番札所として、現存している。

■三好記の記述
 つまり、小少将は愛人と計って夫を殺し、その妻におさまってしまうのである。三好家の歴史を記した「三好記」には次のような記述がある。

 互いに偕老同穴の思ひをなし、飛ぶ鳥の翼を比ぶる親しみをなし、公人二人、女子一人ぞ出来ける。

 公人二人とは、三好長冶と三好存保である。また、三好記には、こうして権勢を得てきた小少将が、城下では「大形殿(おおがたどの)」と呼ばれるようになった、と述べている。
 男を手玉にとって、権勢を得ている小少将の行動に対して、城下で強い批判が出てきたわけである。
 そこで、二人は世間体もあり、形式的には持隆と小少将の間にできた真之を守護として、、義賢と小少将が実質的には政務をとる。
 ところが、義賢は中央政権との関係で、出陣した和泉の戦いで永禄五年(1562年)に戦死する。義賢の後は、義賢と小少将の間にできた長治が継ぐ。しかし、長治が幼かったため、三好家の家老で、その政治手腕が評価されていた篠原長房とその弟の自遁の、兄弟を後見役につける。自遁は鳴門の木津城主であった。
 ただ、小少将はまだ三十歳前後である。義賢を失って三好家を長治に継がしても、守護の真之の母でもあり、実質的には、小少将が勝瑞城の女城主であり、美貌でもある。そこで、またもや小少将の女の虫がうずき始めて、自遁を愛人にしてしまう。
 こんな小少将の生き方に、「大形の心を空に篠原や みだりにたちし名こそおしけれ」という落首が城下に書かれる。城下ではよくない噂が出回っていたということであろう。

 このようなうわさもあり、兄の篠原長房は、弟の自遁に「大形殿との恋は今は亡き主人に対して、無礼であろう」と誡めた。だが、この言葉に小少将が怒ったのである。長治と自遁は長房の居城である上桜城を襲って長房を殺害してしまう。政治手腕を宣教師のフロイスにも高く評価されていた長房殺害と、それまでの為政の混乱は、阿波の政治に大きな汚点を残すことにもなった。
 そんな複雑な城内の関係の中で、今度は、後を継いだ三好長冶と、真之との間に系争が起こり、長冶が死ぬ。そこで、三好家は十河に養子に出ていた(十河)存保を呼び寄せ、後を継がせる。


長宗我部家系図。元親の子「某」の項に「石近太夫 母妾小少将」の記述がある。

■阿波に元親侵攻
 一方、天正四年(1576年)、に、土佐から阿波への侵攻を始めて、海部城を落とした長宗我部元親はさらに、阿波南部に入り、徐々に勢力拡大を図っていった。
 そして、このような阿波の三好一族の混乱を見て、元親は天正九年(1581年)の夏に、吉野川を下って、北阿波作戦を開始、勝瑞城の三好存保を標的にして攻める。元親の指示を受けて、久武内蔵助、長宗我部掃部介らの部隊が吉野川北岸の要衝である岩倉城を落とす。こうした勢いに、紀州の雑賀衆も、協力を申し出ている。

 この阿波侵攻については、元親は外交的配慮から、天正三年(1575年)に、四国統一を意図して、織田信長に、了解を取り付けていた。これは家臣の中島可之助を、信長のもとに送って、当時の四国方面を担当していた明智光秀を介し、長男信親の烏帽子親を依頼している。
 この時、信長は次のような回答を使者に渡している。「天下布武」を旨としていた信長らしい文書である。

 惟当日向守に対する書状披見せしめ候所、阿州面在陣尤もに候。弥忠節を抽んでらるべき事簡要に候。次に字の儀之を遣わし候。信親然るべく候。猶惟任申すべく候。謹言

   十月二十六日                信長
   長宗我部弥三郎殿

 日向守とは明智光秀のことである。元親は光秀を経由して信長に協力を求めたのである。信長はこの申し出に対して、「阿州面在陣尤もに候。」と進出を許し、信親にも烏帽子親の件を引き受けている。
 信長が元親について「鳥なき島の蝙蝠」との言葉を発してからかった、というのはこのころのことである。つまり信長は、元親の実力を軽く見ていた。

■信長翻意
 しかし、信長は元親が土佐を統一し終えて、阿波、そして伊予にも侵入、その勢いが激しいのを見て、考えを変えたのであろう。
 そこで、信長は元親のもとに、明智光秀の家臣の石谷民部少輔を遣わして、伊予と讃岐を返上し、その代わりに土佐と阿波の南半分を与える、という意向を伝えた。この背後には三好氏を初め、伊予の河野氏などの信長への働きかけがある。
 ところが、阿波の勝瑞城を攻めていた元親はこの信長の意向には納得せずに、抵抗し、攻めるのをやめなかった。
 そうこうしているうちに、明智光秀の本能寺の変が起こったのである。そうした事実から、さかのぼって考えると、この明智光秀の元親への使者が実際はどういう話をしていたのか、本能寺の変を示唆したとはいわないまでも、光秀の密使的役割を果たした可能性は十分ありうると思う。光秀の重臣、斉藤利光と元親は姻戚関係にある。時期的に考えられることであり、興味深いところである。
 また、信長はこの光秀の使者が、役割を十分に果たせずに元親を説得できなかったこともこれあり、四国方面の担当を、明智から秀吉に変えてしまうのである。
 そして、秀吉に長宗我部軍を攻撃するための部隊を差し向けるように指示している。そのため、本能寺の変が起こった翌日の天正十年(1582年)の6月3日には、織田信孝らの部隊が長宗我部軍に向けて岸和田の港を出発することになっていた。
 だが、この部隊は信長死去の知らせを受けて、慌てて引き揚げるという事態になる。

■記録は残らず
 この後、元親は、すぐには勝瑞城を攻めあげず、いったん引き揚げて、様子見をした後、天正十年(1582年)八月二十七日に、勝瑞城の一斉攻撃に打って出る。この戦で十河軍と吉野川を越えて激戦を演じる。抵抗は激しかったが九月二十一日には、長宗我部軍が勝瑞城を落とす。そして阿波はこれをもって長宗我部元親の軍門に下ることとなる。

 阿波に残る話では、この後小少将は「敵将の長宗我部元親に近づき、その側室となって土佐に行った」と伝わる。また、別の説では実家の西条東城に帰り、井戸に身を投げたという。または、淡路島に逃げた自遁と行動をともにした、ともいわれる。

 このように、小少将のその後の行方については、決定的なことはわからない。しかし、長宗我部家の系図には右近太夫の項目に「母妾小少将」との記述がある。ということは、元親とともに土佐に来たと、いう説が有力となろう。五十歳でも美人は美人である。元親が気を惹かれるということは十分あろう。歴史には不可解なことが多くあるものである。ただ、この小少将という人物が、どこから来て、関ヶ原の戦の後どうなったかということについては全くわからない。墓所も不明である。

【写真出典】
藍染め:西徳島ロータリークラブ
吉野川:徳島県HP

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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