【知の庭】
 
2009.6.8 

長宗我部家の謎(20)
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

どこに消えた長宗我部家の財宝

金鉱山の鉱脈地図の行く方もわからず

讃岐、阿波、伊予、土佐に残る鉱山の跡を探る

長宗我部 友親

 「四国の覇者であった長宗我部元親が開発した金鉱山の跡を、いまだに探っている人物がいますよ」という話をある日、聞いた。その人は当時岡山放送に勤めていて、報道局長をしていた。
 興味深い話だったので、さらに詰めてたずねてみた。本業のテレビ制作のほかにも、個人的に岡山県で勢力を持っていて、豪族の一族であった遣唐留学生の吉備真備の周辺を研究したりもしている。面白い人だった。


四国山脈。中央構造帯が通っている

■金鉱の探索
 その人によると、四国には中央構造帯が走っていて、鉱脈がある。例えば、住友金属鉱山が新居浜市に工場を持っているように、かっては四国には多くの鉱山があった。
 長宗我部元親も讃岐、阿波、伊予、土佐のいたるところで、金をはじめとする採掘を行っていた。その痕跡は今でも残っている、という。語りが熱いのである。そして、彼は一本のビデオテープを贈ってくれた。その中には香川県のさぬき市津田町に住む、小西忠彦という人が、長宗我部元親の鉱山の跡を追っている姿が描かれていた。
 小西さんは香川県警の元刑事で、業務の間を縫って、かっての長宗我部の金鉱の探索を続けているという。

 そういえば、思い出した。昔、子供のころ、お茶の間で、両親が話しているのを聞いたことがある。
 長宗我部元親の財宝がどこかに隠されているという言い伝えが高知にはあって、その伝説の場所を近く掘るのだ、ということだった。結局、発掘すると伝えられた場所からは何も出てこなかった。
 しかし、とはいうものの、それ以来その「お宝がどこかに隠されているかのしれない」という話は、慾も絡んでか、心のどこかに絡み付いてしまっていて、自分の家に残っている書付のどこかに、その宝のありかが隠されているのではないか、という「期待感」みたいなものが自分の体から一時離れなくなってしまった。

■古文書を探る
 そんなこんなで、家にある古い書付や、和歌の写しなど書き残されている古文書みたいなものの二重張りになっているところをはがしてみたりした。だが、それらしいものは今だに何も見つかっていない。文書が傷ついただけのことである。また、そのお宝発掘の記事以来、地元の新聞にもそうした宝探しの話は全く登場しなくなった。

 でも、今冷静に思うと、長宗我部家は徳川家康によって強引につぶされたのである。それまでは、四国全土を統一する力があった。ということは、その行動を支える財力も備わっていたということである。ならば、どこかに財宝を隠し持っていても、おかしくはないのではないか。
 それに四国は住友鉱山の発祥の地でもある。いやそれどころか、邪馬台国がひょっとしたら四国にあったのではないかという話さえある。空海だって、いたずらには四国行脚はしていないはずである。彼はもともと鉱脈に詳しかった人間である。空海は水銀を探して四国を歩き、それが八十八箇所の巡礼路として残されたのだ、という説もある。家康だって、長宗我部の財宝を狙っていたという。
 そう見てくると、長宗我部家の滅亡の陰には財宝があり、財宝を求めるために家康がつぶしたという推論もできないことはない。もともと長宗我部家は秦氏の出である。秦という一族は鉱山技術にもたけていて、中国から日本に渡ってきた際には、鉱山技師の一団を連れてきたといわれる。


徐福像。秦一族の徐福は鉱山技術も持っていた

■秦一族は鉱山に詳しい
 鉱山があったから、秦一族は土佐という辺境の地に甘んじてやってきたのかもしれない。長宗我部も四国統一のための、資金の主たるものを鉱山から得ていたのかもしれない。
 かって水銀は不老長寿の薬のひとつとして珍重されていた。秦始皇帝は、水銀を集めさせて、自分の墓には水銀の池を造らせ、その中央に眠っているのではないか、という説もある。

 奇妙な話がある。それは、長宗我部家の本拠、浦戸城でのことである。慶長五年十二月五日の正午を期して、浦戸城は、長宗我部の重臣から、引き取りに来た井伊家の家臣に明け渡された。

■渡されなかった財宝
 長宗我部家の家老年寄の連署による浦戸城の兵器、食料引渡し文書の内容は次の通りである。それを見てみよう。

浦戸城にて渡申注文

 一 馬            三疋
 一 鉄砲           八十張(大小共)
 一 石火矢          九張(大小共)(此内二張浦戸政所ニ有)
 一 玉 薬          三萬枚
 一 シロメ玉 (鉛玉)    十萬斗
 一 エンショウ(焔硝即火薬) 瓶五本
 一 ユワウ(硫黄)      千五百斤
 一 鎗            百三十本
 一 城米           千石内米五百拾石 城天守ニ有
                二百拾石   同ヒツシサツ矢倉西南櫓ニ有
                二百七拾石  但籾ヲ米ニ算用ニ土居ノ蔵に有
                併千

 一 味噌           拾石
 一 塩            百俵
 一 城共

 慶長五年十二月五日      非遊
                久萬次郎兵衛
                山内三良右衛門
                中ノ内兵庫

   松井武太夫殿

井伊家からの使者である鈴木平兵衛覚書に左の連名がある
 桑名弥次兵衛  南岡四郎兵衛  宿毛勘兵衛   福留善之助
 町野又五郎   竹内兵庫    立石助兵衛   吉田宗性
 同 平右衛門  同 孫三郎   依岡左傅次   國吉小三郎
 吉村九兵衛   十市新右衛門  大黒右衛門太郎 林 佐太郎
 津野源兵衛

右十七人

(「土佐国蠧簡集」巻七「久万文書」より)

■誰がどこに隠したか
 引き渡された馬や塩などの連記のほか、浦戸城に残っていた十七人の重臣の姓名が記されている。ただ、この記録を見て非常に不思議なことがある。金銀財宝についてのことが全く記されていないのである。金銭が無かったわけはないであろう。
 それに、長宗我部は多くの鉱山を管理していた。それは事実として歴史にも残っている。金や銀、それに水銀などがあったはずである。また、鉄砲などを造るための、鉄や銅などはどうなったのであろう。また、鉱山に関する書付なども残っていたはずである。
 
 そうした書類などは、井伊家が極秘裏に持ち去ったのであろうか。あるいは、城明け渡しを早くに決めた重臣たちがいずこかに隠すための行動を素早く起こしていたのだろうか。  再起を期して、ということは十分ありうる。
 長宗我部家は一時とはいえ四国全土を席巻した強固な武闘集団である。それが関ヶ原を初めとしてまったく戦っていない。戦うための余力は、兵、そして資金面でも十二分にあったはずである。
 そのほか、馬にしても、鉄砲など武器にしても、やはり少ない。少なすぎる。長宗我部家の資産類は、ほとんどどこかに持ち去られていたのではないだろうか。
 特に、鉱山についての書付などはどうなったのだろうか、長宗我部家が消えた後、徳川の手のものが、鉱山の再開発をしていたといった場所もある。資産の行方は興味深い。


八十八ヶ所のお遍路さんの路も鉱脈に関係があるともいわれる

■小西さんの探った鉱山
 その長宗我部元親が残した鉱山を追っているというその小西さんから、手紙が届いた。その中には小西さんが独自に探ったいくつかの鉱山についての、彼の記録がしたためられてあった。その一部を紹介する。

金山洞窟の謎
 香川県さぬき市寒川町石田東に金山(かなやま)と称する山があり、その南端部の切立った岸壁の下側に洞窟がある。現在この地には雑木が生い繁り、洞窟にたどりつくまで少々困難だが、麓から三十メートル位のところにある洞窟は左右二つに分かれていて、左側のほうはほとんど埋まっていて通ることはできない。右側のほうは、小腰になって通ればどこまででも通れるが、真黒で気味が悪く酸欠の心配もあり、途中で引き返したが、地元の古老の話では神前の蓮井家(元大庄屋)の屋敷下まで続いていたとのことである。しかし、その屋敷は今はなく、確かめようもなかった。
 この洞窟が掘られたのは、高松藩初代、松平頼重公の時代で、即ち承応三年(一六五四年)頃、銀採集のためと言われているが、俗に言う「隠し銀山」なのである。
 だが、「金山(かなやま)」の歴史は、実際はもっとずっと古く、戦国時代前から「寒川氏」と「安富氏」の両城主間において、金山の帰属問題で再三にわたり戦争が起き多くの犠牲者が出ているのです。それは「なぜか」といえば、本当は銀ではなく黄金が採れる山だったからなのだそうです。
 戦国時代には安富氏に所属していて、金を採っていたようだが、土佐の長宗我部に攻められてからは長宗我部氏に所属し、同氏配下の徳島木屋平出身の「木屋平若狭」が兵百名位を率いて富田西村城に駐留し、金を採っていてその金を長宗我部家に軍資金として送っていた可能性が強いようです。その後、豊臣氏に攻められて木屋平若狭は徳島に帰ってしまい、金山は閉鎖されていたが、松平公の初代になって「隠し銀山」として復活したようであります。
 金山が安富氏に所属していた時、雨滝城の城代家老であった「六軍宗亘」なる者が富田出身で権限をもっていたようで、長宗我部軍が攻めてくる前に安富城主は小豆島に落ちのびてゆき、あとは「六軍宗亘」が守っていたが「長宗我部軍」との交渉の結果「宗亘」を新城主にする条件で降伏したため、これに反対した安富氏の分家である富田西村城主安富貞正ら城兵は長宗我部軍によって玉砕させられてしまうのです。
 その後、豊臣氏に攻められたため、宗亘は徳島の脇町のほうに落ちて行って、そこで亡くなったようだが、宗亘の残党は金山の金を採り長宗我部再興の「軍資金」と、自分達の活動資金としていた「ふし」が古老の伝承によりみられるのです。その裏付になるかどうかはわからないが、金山周辺に明石姓が、現在二十軒位あり、この明石一族は金山の金採取にかかわっていたようで、明るい石、即ち「黄金」からきた名前との説もあるように聞いております。
 前述の富田西村城についてはその所在が未だ解明されておらないが、金山の頂上付近が平坦地で小さな祠が祀ってあるが、地元古老の話を総合すると、ここに「富田西村城」があったとの説が目下のところ有力である。したがって「富田西村城」は金山の金採取のためのお城であったようです。
 金山の北側に「吉金」と言う地名がある。この地名の由来を地元古老に聞くと、良質の金が採れたのでこの名がついたとのことであったが、その裏付けとして吉金の貧しい農家に塩売りが来て「米か麦」と交換するとのことであったが、その「米も麦」もないと言うと庭先に放ってあった黒っぽいかたまりの石を見てこの石と塩三升と交換すると言うので、そんな石ころでよかったらと交換した。その後塩売りは大阪へ石を持って行ってみたところ「金鉱石」とのことで大金を手にしたとのことであった。

雨滝城等の落城と金山の謎
 前回謎の金山について述べましたが、その後調査を続けていてもう一ヶ所あることが、地元古老の伝承等でわかってきたのです。その場所は津田北山の山頂あたりなのです。地元古老の話によれば、戦国時代、北山の山頂にお寺があり、そこに山伏僧兵軍団が五十人位いたと言うのですが、このお寺にたてこもり、攻めて来た、長宗我部軍に対し抵抗したが、頼みの援軍が来ず、ついには、全滅してしまいお寺は焼失してしまったというのです。
 この話を聞いて、私は一つの疑問を持った。それは、こんな辺ぴな山頂のお寺をなぜ長宗我部軍がわざわざ攻めたのだろうか。それも、多大なる犠牲を払いながら、最期迄攻め全滅させている。そこには戦略上大きなものがあったに違いない。それは、ずばり言って「金山」があったと私は推理したのです。前回、二ヶ所の金山について、長宗我部軍は多大な犠牲を払いながらも執拗に攻めて手中に入れ、守備兵をあとまで置いていることからして、軍資金である「金」を採集していたのです。
 ここ北山山頂の場合も同じだと思う。
 それでは北山山頂の、どこから金が採られていたのかと言うことですが、北山の地元では「北山千家寺」と言う言葉が昔からある。この真の意味がなかなかわからなかったのですが、これは北山に千家の(多くの意)お寺があったと言うのではなく、採集のため、多くの小屋が建ち並んだ時期があったという意味であったのです。同じ津田の大山にも、「寺尾千家」という言葉があるが、これも寺尾山周辺、大川町、大内町、津田町にまたがり「寺尾千家」といわれ、この中に前回述べた大内町の小砂も含まれているのです。
 そして北山北部山頂に「仏穴」という地名のところがある。岩をくりぬいた洞窟内に古仏四体が安置されているが、ひょっとするとこの洞窟から金を採っていたのではないかと思われるのです。また、ここ以外にも、北山の山頂近くで金が採られていたとの伝承はあるようで、金以外に山頂南部ではメノウ(出雲石)のひとかかえもするものが出たとの話もあるようです。
 例により、私見を申上げて申し訳ないのですが、戦国時代、北山山頂では山伏僧兵達が雨滝城城主の命をうけて軍資金となる金を掘り出していたのではなかろうか。そのことは隠密によって長宗我部軍の知るところとなり、山伏僧兵軍団は玉砕してしまい、金はそっくりもってゆかれたものと推理せられるのです。

■鰹節か金塊か
 小西氏の探索は執拗で、現在も続けられている。この調査を読んでいても、鉱山をめぐる話は尽きなかったように思う。軍を維持し、かつ動かすためにはやはり財宝が必要なのである。長宗我部家は、土佐の岡豊城の三千貫の小城主から発して、一時とはいえ、四国を制覇した、それに全国制覇も夢見ていたと思われる。
 だから、兵を動かすための財宝にも、敏感であったと思われる。土佐にも金鉱があったという伝承は聞く。家康が四国に注目していたのも、やはりそうした鉱脈に大きな魅力があったからであろう。
 京都の太秦あたりで蟄居していた長宗我部盛親が、大坂の陣に豊臣秀頼から呼ばれて兵を上げたときに、大阪城に入る頃にはその数が千人を越えていたといわれる。多くの兵を集めるには財宝が必要だ。それを盛親はどこから調達したのか。豊臣秀頼のところに財宝があり、それを消費させ、つぶすのが大坂の陣を起こさせた徳川家康の狙いの一つではあったろう。
 だが、それだけではなく、そこに長宗我部家の財宝も投下されたであろうことは容易に推測できる。やはり、再起のために、長宗我部家の財宝は隠されていたのであろうか。鉱脈も含めての話である。関ヶ原のあと、長宗我部の重臣らを追って柳生が動いたという話も伝わっている。その最たるものは熊本の加藤清正のところである。
 肥後熊本の加藤家には、浦戸城明け渡しの際に、不戦派の代表格であった久武内蔵助が世話になっている。その際に、献上品として鰹節を数本差し出した記録があり、加藤家からの礼状もある。大名が鰹節で礼状を出すであろうか、鰹節は金塊ではなかたのだろうか。つまり、長宗我部家滅亡後、金などの財宝の行く方は、全くわからないのである。予断だが、ただ一人の側室であった、小少将の墓に埋められているという説もある。


元親といわれている墓

■入れ替わった?墓
 没落した家柄だけあって、長宗我部家には謎が多いが、もうひとつ、非常に気になる謎がある。それは、長宗我部元親の墓である。
 「みなさま左手に見えますのが、四国の雄といわれた長宗我部元親の墓でございます」。土佐で観光バスに乗ると、月の名所というより、今では坂本龍馬像に向かう途中で、バスガイドがそんな案内をする。目的は坂本龍馬なのだから、長宗我部元親の墓所といえども、客がバスから降りることは無い。
 その墓は天甫山といわれる小高い山の中腹にある。昔は、マムシが出るといわれていて、木切れを持って、周りをたたきながら墓参したものだ。ここが、現在は長宗我部元親の墓といわれて、高知県が発行する観光案内書にもそう書かれている。
 でも、それは間違いであると思う。その根拠は、元親の謚は「雪渓怒三」である。とすれば元親の墓は天甫山ではなくて、雪渓寺におかれるべきである。また、現在雪渓寺には元親の長男の信親といわれる墓があるが、信親こそが、天甫殿と呼ばれていた。つまり元親と信親の墓が、何かの事情で入れ替わってしまっているのではないだろうか、と思うのである。
 どういうきっかけからそう思うようになったのか。それは長宗我部の歴史に詳しく、当家の系図も整理していただいた寺石正路先生が、わが家に残してくれている一枚の絵があり、そこに「長宗我部元親の墓」として描かれているのは、天甫山のあの墓ではないのである。もっと質素な、墓で、雪渓寺のものがそれであると思われる。
 もし、推測が正しく、雪渓寺の墓が元親のものとしたなら、なぜそんなことになったのか。ひょっとして、財宝が理由ではないのだろうか。ちなみに、かって財宝を求めて彫られたのは天甫山にある元親の墓であった。そして、何も財宝といわれるようなものは出てこなかったのである。

【出典】
徐福像:wikipedia「徐福」
お遍路:四国巡拝センター

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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