【知の庭】
 
2009.6.1 

長宗我部家の謎(19)
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

一領具足273人の血が流れる

混乱の中、盛親の兄の親忠を自害に追い込む

井伊家が城受け渡しを求め、重臣らが応ずる

長宗我部 友親

 鯨が酔っぱらうと書いて、「酔鯨(すいげい)」と読む。そういう豪快な名前の酒が土佐にはある。高知市内から、月の名所といわれる桂浜の方角に車で向か うと、高知競馬場を少し過ぎたあたりから、古い街並みが現れてくる。そのあたりが「長浜」という地域で、ここに長宗我部にまつわる歴史が多く潜んでいる。


土佐の太平洋

■酔鯨酒造
 この酔鯨という酒を造っている酔鯨酒造も、長浜の街の中にあり、長浜では唯一の酒造会社である。かってはその醸造所に通って、よく樽を分けてもらって飲んでいた。
 土佐人は酒好きなだけに、なかなかうまい酒を造る。この長浜の街から波の音がする方向に少し行くと、もうそこは太平洋である。大きな広い海が広がり水平線が見え、荒波が寄せてきている。
 この太平洋を望む海岸線のあたりに、漁師がいて、二、三軒のドロメを造るところがある。ドロメというのは生きた小魚で、とりたての魚をそのまま酢醤油で食べる。
 子供のころはこの海辺のドロメ屋に行って、ドロメを分けてもらい、朝ごはんのおかずとして食べていた。朝早くに行かないと、もうなくなっていたので、夜が明けたらすぐに買いにやらされた。ドロメは鮮度が命である。
 
 戦国時代の土佐では、京の都や堺の商都へ行く交通機関は船であった。したがって、当時はわが領土の発展を考えると、海路を抑える必要があった。長宗我部 元親がその初戦を長浜城を奪う合戦と決めたのも、その狙いの一つは海から京、大坂へ向かう湊をおえるという意味があったであろう。長浜の隣には浦戸の湊が ある。


一領具足供養の碑

■一領具足の碑
 この長浜の太平洋の荒海が押し寄せる海岸に面したところに一群の墓地がある。その墓地の一角に、「六体の地蔵」が祀られている。この地蔵は、長宗我部の城であった浦戸城を徳川家康に明け渡すときにあくまでも抵抗して、果てた一領具足らを弔うものなのである。

 盛親の兄の津野親忠が、重臣の策謀によって、自刃させられたが、盛親はその事実を知らないまま、大坂の天満の邸に入った。浦戸城での重臣らとの合 議の線に沿って、井伊直孝を通じて、徳川家康に謝罪するためである。結局、全国制覇を夢見て、四国統一を果たした長宗我部元親の二代目城主、盛親はこれを 最期に、以降土佐の地を踏むことは無かったのである。
 
 盛親は井伊のすすめで、家康のいる大坂に向かった。しかし、家康の本心としては長宗我部は出来れば徐封したかったということである。井伊らが、長宗我部 は本戦を戦っていないのだから、穏便な措置をとるように、とのとりなしをしたが、それに対して家康は一向に返事をしなかったという。機会を見ていたのであ ろう。

 そうこうしているうちに、本田忠勝が討手として、「盛親の邸を襲う」などの噂が立ち、盛親の周辺は家臣が散り、吉田孫左衛門、江村孫左衛門、立石助兵衛ら数人を残すのみとなってしまった。だが盛親本人はすでに腹を決めており、覚悟はできていた。


一領具足を祀る石丸神社

■津野親忠の死
 ただ、親忠の死は、藤堂寄りの長宗我部の家臣によって、藤堂高虎に伝えられた。そこでこの事実が家康の知るところとなってしまった。
 家康にとっては格好の材料が飛び込んできたということだろう。井伊家のとりなしの弁に対して、家康はこのように答えたという。「元親の子にもそのような不義のものがあるとは。速やかに誅せよ」と。
 こうなっては井伊直孝としても、どうにもならない。結局、死罪を逃れることがやっとで、措置としては「領土召し上げの上、解き放ち」ということになった。つまり、京都の柳が辻で蟄居ということである。
 盛親の措置はこういうことになってしまったが、土佐の本国ではそうはすんなりとことがおさまるわけがない。この知らせを聞いた、元親の信頼すべき武士集団である一領具足は「御大将に、領国を」と、叫んで家康に抵抗する道をとった。

■家臣間が割れる
 大雑把にいって、主のいない本拠地の浦戸では、城明け渡しを決めた重臣たちと、「あくまでも抵抗する」ことを主張する一領具足たちの対立が生じてしまっ たのである。だが、この一領具足たちが現実にはこれまで元親の軍団の中心を支えてきたのである。長宗我部の家臣団は、大きく二つに割れてしまった。そこ で、結局味方同士の無残な殺戮が行われることとなってしまった。その顛末はこうである。
 
 慶長5年(1600年)の10月19日、城受け取りのために、8隻の船が浦戸にやってきた。盛親は大阪に行ってしまって、この城にはいない。その中の一隻には城明け渡しを認めた盛親自身の書状をもった長宗我部の家臣の立石助兵衛が乗っていた。
 井伊家からは、城受け渡しの立会人として、鈴木平兵衛と松井武太夫がやってきていた。また、次の浦戸城主となることが決まっている山内家からは一豊の弟の康豊が 後続の船に乗っていた。


一領具足を祀る石丸神社

■鉄砲を撃つ
 この一団の船を、長宗我部の家臣団が、浦戸の湊で迎えた。だが、家康が長宗我部家に対して、どのような処置を決めたかについて、その内容は、その時、浦戸城にはまだ届けられていなかった。
 家臣団の胸中には不安が走った。そうこうしているうちに、船で大坂からやってきた立石助兵衛により、情報が入り、家臣団は混乱した。「盛親召し放ち」と いう措置には誰もすぐには納得がいかず、怒った一領具足が船に向かって鉄砲を放った。船は危険を感じて一時沖に避難した。

 騒ぎを知って、臨済宗・雪渓寺の僧である月鋒が、仲裁に入った。そこで井伊家からの使者である鈴木平兵衛と一領具足の代表である竹内惣右衛門らと の話し合いが始まった。だが、一領具足側はあくまでも「長宗我部家のために、土佐半国でも残せ」ということを主張して詰め寄る。
 そこで、危険を感じた使者はひとまず、引き下がり、井伊家の意向を聞くということになった。しかし、家康の腹は既に決まっていて、「浦戸城を攻めても明け渡させよ」ということであった。
 
■「浦戸を攻める」
 この家康の意向を聞いて、驚いたのは一領具足よりも、長宗我部家の重臣たちであった。ますます内部分裂が鮮明になったのである。家内不統一である。家が 崩れる時はもろい。家老、物頭ら17名は「抵抗せずに開城する」という結論を出して、連名で、その意を井伊家の使者に差し出した。ここで抵抗することは、 召し放しとなっている主人の盛親の命、ひいてはその将来に不利となる、と考えたのが表向きの理由であろう。
 だが、一千人を超える一領具足らは、それでは承諾できない。そこで鉄砲を初め、槍などの武器を集めて、雪渓寺に立て籠ってしまった。彼らは弱腰の家老らを討ち取り、井伊家からの使者らは切腹させようという考えであったという。

 内通者からこの情報を得た家老者頭らは謀議して、機先を制して雪渓寺に立て籠もっていた一領具足らを総攻めにすることを決めた。惨劇が展開され、一領具足ら273人はことごとく討ち取られてしまった。しかもそのうち竹内惣右衛門ら大将格の首は浦戸で獄門にさらされた。
 井伊家からの使者である鈴木平兵衛は、討ち取られた首を塩詰めして船に積み込み、大坂の家康のもとに送ったという。

 これで浦戸城下の反乱は一応おさまった格好になったが、その後も長宗我部の一領具足らの抵抗は至る所で起こっている。この浦戸での反乱は、長宗我 部の家臣同士の戦いとなったということで、無残にも散った一領具足たちの魂を弔う人が多い。太平洋に面した六体地蔵には今も花が絶えない。


六体地蔵

 この一領具足との戦いの際、家老らに協力した長浜の宇加二兵衛に、重臣が宛てた感状が残っている。如何にも複雑なものがあるので、その内容を見てみよう。

 今度一領具足公儀に對し悪意相搆へ井爲(井伊)兵部様御内衆鈴木平兵衛殿並に家中年寄共相果すべき旨行ふに及び候處貴所の事自餘を抽でられ忠節比 類なく候御世が代に候はゞ御加揩「かほども仰付けらるべく候へ共今の時分候へば左様の儀も之れ無く残り多く候然と雖も上國に於て能々申上げ追而御褒美を成 さるべく候先づ年寄共として一書如此候恐々謹言

 こうして、慶長5年12月5日、長宗我部元親が、四国制覇を果たすための本拠地となった浦戸城はその家臣の手で、開城されることとなったのである。

■妙円寺詣り
 このように天下分け目といわれた関ヶ原の戦以降、四国の長宗我部一族は、関ヶ原での西方の敗北による敗走、盛親の兄である津野親忠の謀殺、重臣と一領具足の最強軍団との対立から内乱へと、一気に崩壊の路をたどる。
 
 ところが、その一方で、関ヶ原の戦で、長宗我部軍と同じ西方に立ち、しかも西方の大将格であった島津軍は、違った道を進んでいる。
 島津軍は島津義弘を先頭に、徳川軍の中央突破を試みたことは述べた。その後は長宗我部軍と同様に、敗走の道をたどることになるが、薩摩に帰国後、その一族は反徳川の気持ちを、藩内に固めて貫く。
 関ヶ原で戦った島津義弘を祀った妙円寺には関ヶ原の合戦前夜に当たる九月十四日の夜に風変わりな行事が毎年延々と実行されている。
 薩摩城下に武士の格好をした市民が集結して、そこから妙円寺までの約二十キロを甲冑姿などで行列して歩くのである。槍を持ち、幟を立ててである。往復でみると四十キロの道のりがある
 そして、次の歌をお互いに歌うのである。


妙円寺詣り

■一領具足の血を引く坂本竜馬

1 明くれど閉ざす 雲暗く 
  薄(すすき)かるかや そよがせて
  嵐はさっと 吹き渡り 
  万馬(ばんば)いななく 声高し

2 銃雷(つついかずち)とどろけば 
  太刀稲妻と きらめきつ
  天下分けの たたかひは
  今や開けぬ 関ヶ原

3 石田しきりに 促せど 
  更に動かぬ 島津勢
  占むる小池の 陣営に 
  鉄甲堅く よろうなり

4 名だたる敵の 井伊本多
  霧にまぎれて 寄せ来るや
  我が昌巌(しょうがん)ら 待ち伏せて
  縦横無尽に かけ散らす

5 東軍威望の 恃みあり
  西軍恩義に よりて立つ 
  二十万余の 総勢の
  勝敗何れに 決せんや

6 戦ひ今や たけなはの
  折りしも 醜(しこ)の 小早川(こはやがわ)
  松尾山を かけくだり
  刃返すぞ 恨めしき

7 前に後に 支へかね
  大勢すでに 崩るれど
  精鋭一千 われひとり
  猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振ふ

8 蹶け立てて駒の 行くところ
  踏みしだかれぬ 草もなく 
  西軍のために きほひ来て
  なびくや敵の 旗の色

 これが鹿児島三大行事の一つ「妙円寺詣り」の歌である。島津軍一千が関ヶ原で受けた、苦難を毎年歌い続け、このようにそのエネルギーをたくわえて逃さず、幕末に長州とともに徳川幕府にぶつけたのである。
 その薩摩と、長州を結びつけたのが、土佐で重臣らに弾圧された一領具足の血を引く坂本龍馬であったというのもなにか歴史のもつ複雑さを感じる。

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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