【知の庭】
 
2009.5.25 

長宗我部家の謎(18)
Enigma of Warlord
History of Chosogabe Family

関ヶ原では戦わずして敗走

家康への謝罪のための上坂を決めるが

重臣が兄の親忠を切腹に追い込む

長宗我部 友親

 「おんしゃ、なめたらいかんぜよ」。と、うら若い女性が、着物の裾まくりあげて痰火を切るというのは、色っぽいのかもしれないけれど、男も女も土佐人の気質はかなり激しい。


新聞を棺に入れた行列が市中をめぐる

 明治時代のことだが、「新聞の葬式」というのが、行われた。むろん自由民権の父ともいわれる板垣退助生誕の地でもある土佐でのことだ。土佐の葬式 は、アミ笠をかぶる。そのアミ笠をかぶって、新聞を棺桶に入れた行列が市中を巡った。明治政府の新聞に対する弾圧に抗議する言論人の行列である。

■新聞の葬式
 こんな広告も掲載された。
「我カ愛友ナル高知新聞ハ一昨十四日午後九時絶命候二付本日午後一時吊式執行仕候間愛顧ノ諸君ハ来会アラン ヲ乞 高知新聞の愛友 高知自由新聞社。」

 これは明治十五年七月に、高知自由新聞に掲載された、高知新聞の葬式を伝える広告である。高知自由新聞は高知新聞が、政府によって発行差し止めとなったために作った身代わり紙である。
 とにかく土佐人というのは日本の中でも一種独特の個性を持ったおかしな人種で、ひと筋縄ではゆかないのである。偏屈というか、骨っぽい。高知新聞100年史によると、本当にこの葬式は実行された。明治十五年の七月十六日午後二時に葬列が高知新聞の本社前を出発した。

 高知新聞社発行の「高知新聞100年史」は、この時の様子を次のように記している。
 先頭に各地区自由党の壮士がそれぞれの社旗をつるした竿を持って4列に並び、高張提灯がこれに続く。新聞紙で張りまわした位牌、香爐箱、蓮華、「寂滅為楽諸行無常高知新聞紙ノ霊」と大書した旗をかざし、柩は新聞配達人4人が担いだ。

 この行列に新聞記者、新聞社の株主らが続き、さらに芸者らも加わり、2227人が記帳を行ったそうだ。反骨精神にしゃれっ気が加わっている。

 土佐はこうした土地柄である。だから、長宗我部軍は石田三成方に加わり、関ヶ原で敗走して、帰城はした。しかし、そのまま城を明け渡せといっても、そうはすんなりとことはおさまるわけがない。
 結局、浦戸城では、一領具足を中心にしての籠城戦が展開されることとなったが、関ヶ原の敗戦から、それまでの経緯を、一応見ておきたい。


高知自由新聞の社告

■戦わずして敗退
 岐阜城を落とした後、徳川家康が関ヶ原に着陣した。東軍は徳川家康を大将に、桃配山に井伊直政、福島正則両将が配された。また、西軍は浮田秀家を総帥として、右翼に島津義弘、小西行長、石田三成、それに左翼には小早川秀秋、大谷吉継、吉川広家がついた。
 南宮山には長宗我部盛親の6600騎をはじめ長束正家、安国寺恵瓊が陣取り、東軍の側面か、背後を突くことを狙っていた。

 ところが、長宗我部隊は主戦場から遠く離れており、霧が深く、そのうえ、戦いは始まったものの一進一退でなかなか、はっきりしなかったために、情報を得るために斥候を出してはいたが、戦況は容易にはつかめなかった。
 そして、正午ごろになり、松尾山に陣取っていた小早川秀秋が裏切り、大谷隊の側面を突いた。これにより、西軍は総崩れとなって午後三時ごろには勝敗は決した。家康は完全に勝利を収めた。
 この結果、南宮山の陣で様子見をしていた長宗我部軍が、敗戦を知った時にはもう、急ぎ逃走せざるを得なくなっていた。多羅尾山から伊勢路を指して大阪に向かったが、池田輝政、浅野幸長の追撃を受け、無残であった。
 部隊は大将である盛親の前後を守りつつ、討手の隊をけん制しつつ、伊勢路から伊賀路を抜けて和泉国に入り、大坂の天満の邸に向かった。
 しかし、東軍の討手との激戦で百人を超える戦死者を出し、隊列も乱れ、さんざんな状態に追い込まれている。

 伊勢路より伊賀路を経て和泉国の境を出づる時小出播磨守出て之を途に拒き石津原に相戦ふた。その時中山新兵衛、鳥銃を以て抜群の功あり、亦下元與次兵衛も亦殊功があったが、盛親後に皆之を賞した。(土佐物語)

 ということは、相当の苦戦をしながら、逃げている。寺石正路の「長宗我部盛親」によると、天満の邸に入る前に、さらに一揆にあって、何とかまとめ てきた兵も再びちりじりになりそうになったけれど、小姓のひとりの福良助兵衛が「大音を揚げて」真っ先に戦い、一揆の衆を蹴散らした、とある。

 しかし、盛親が天満の邸に入った時には、盛親の残りの兵はもうわずかとなっていた。
 関ヶ原の戦いで、西方の島津義弘が率いる島津軍は、敗戦を知ると、敵の正面突破作戦を敢行した。戦史に残る島津軍のこの行為については、無謀、侠気、あ るいは勇敢などとこれまでいろいろ批評されてきた。しかし、この作戦は状況をよく把握した、すばらしいものであった、と今考える。
 ひたすらに南宮山からただ敗走を続けた長宗我部盛親の軍は、相次いで敵の追撃を受け続け、恐怖からばらばらになって、壊滅していった。しかし、敵の正面 突破を実行した島津軍は、そこで一致、団結して戦ったことにより組織は結束を固め、逃げるにしても敵と戦うという、前向きの精神が維持できたのである。こ れは長宗我部軍と精神の持ち方が全く違った。ひたすら負けるのみの流れにはまり込んだ組織は、もう壊滅の路を歩むしかないのである。


この伊吹山の麓に関ヶ原の古戦場がある。

■密かに浦戸に帰る
 盛親は天満の邸にしばらく滞在していたが、少しずつ残兵を土佐に返して、自分も忍んで土佐の浦戸の城に入った。そして、家臣の立石助兵衛、横山新兵衛を 差し向けて、井伊兵部直孝を通じて徳川家康にその罪を謝り、許しを乞うた。しかし、井伊直孝は自分は浦戸にいながら罪を許せというのはどうか、自ら家康の もとにまかり出て、赦罪を乞うべきであろうの意向で、盛親を説得するいために自らの家臣、梶原源右衛門、川手内記の二人を、立石、横山につけて、逆に浦戸 に向かわせた。

 これを聞いた、盛親は「それももっともである」と考えたが、一応家臣の意見も聞いた上で、ということで今後の処し方について城内で議論することと なった。その時に述べられた家臣の意見は、その後の長宗我部家の流れを決めていくうえで大きな意味を持つので、先の寺石氏の「長宗我部盛親」から、その内 容を記してみる。

大黒主計(土佐郡杓田城主吉良親貞の女即、盛親の従妹の夫なり)曰く
 井伊殿御取持に相違はあるべからずと雖も公儀計り難し粗忽に御上りありて敵の擒となり給ふて臍を噛むとも甲斐候に元より御敵となり給ふことは不運なれ摸稜の評議を差置かれ運を天に任せ籠城然るべしと存ず。

久武内藏介親信曰く
 大黒殿申さる所實に理なり扨て籠城の軍畧は如何に致され給ふや。

大黒主計曰く
 當浦戸城は交通自由にて敵を引受くるに宜しからず國中に山林險阻要害の地多く候へは衆議次第に取籠り妻子供を隠し置き心安く合戦致し候べし古より土佐の 地へ他國勢押入りたる例候はず源平合戦のとき平氏の餘黨所々に落ち隱るも源平一統の世となりても當國へ手指す者なし惣して當國へ案内知らぬ他國より攻入る といふ事思ひ寄らず數年籠城する間には寄手も困じ果て扱になること必定なり云々

戸波右兵衛門親武(戸波城主盛親従弟にして比江山掃部親興の兄)曰く
 主計殿の申すところ一理ありと雖も當今は源平の世と同じからず當時は諸國一和せず互いに往来も稀なり然らば平家の残黨數代恐る所なく住せしも尤なり今は 然らず譬ひ百萬の勢にて籠りたとも天下の兵を引受けては所詮勝算況んや小勢をや若如何なる岩陰に妻子を隱し置くとも天下の大軍押来り野山といはず押捜さは 妻子共は城兵より先きに生捕られんこと疑あるべからず迚も死せんずる命を武勇の為め捨てたらんは末代迄も屍をCむべし只此の城を枕とし潔く討死せんに如か ず。

久武内藏介又曰く  
 右兵衛殿仰至極せり然りながら退いて愚案を廻らすに當家は家康公と元親殿以来御入魂の所今度不慮の仕合己むを得ず石田殿に黨しぬ然れば伊井殿の内意に任 せられ大阪へ御越ありて眞實を御歎きあらば家康公も舊好を思召し本領安堵を給はるは相違あるべからず是非御上りあるが肝要と存候。

 以上のような意見が出された。籠城、討ち死に論も強かったが、重臣の間では、結局久武内蔵助のによる、上坂したうえで、家康に「本領安堵」を願いでる、という降参説が採用された。そのために、十月に盛親に十一人の武士がつき、雑兵百八十人を連れて上坂することになった。


高知・桂浜。この右手の山上、
太平洋を望むところに浦戸城があった。

■重臣が兄の親忠を切腹させる
 ところが、その前にとんでもないことが起こってしまった。重臣の久武内蔵助が、疑心暗鬼になって、余計なことを盛親の耳に入れてしまい、長宗我部家は自滅の道を歩むことになってしまうのである。
 元親は盛親の正室に、戸次川で戦死した信親の娘をつけるなど、盛親に家督を継がせることに決していたのだが、それを面白からず思っていたのが兄の津野孫次郎親忠で、おさまったが長宗我部家にこの親忠が絡み家督相続をめぐって、波乱があったことがある。
 久武内蔵助はそのことを思い起こし、関ヶ原の結果による混乱時に再び親忠が権力闘争に浮上することを危惧した。そして、次のように盛親に進言してしまった。

 津野親忠殿はかねてから、家督について恨みがある。そして、徳川方の藤堂和泉守とも親忠殿はご入魂でもある。今回の処分で、土佐を二分してその半国を親忠殿に分与せらるるなりゆきになるのは必定、その時に後悔しても、だめなので今のうちにご処分されたし。

 それを聞いた盛親は、「もってのほかの沙汰なり」と、この久武の案を一蹴した。だが、内蔵助は、こうしたことを自分が進言したことが親忠方の耳に 入り、仕返しされることを恐れてしまった。そこで、自分の手勢を繰り出し、盛親の命、と偽って親忠に切腹をさせてしまう。悲惨な場面だが、その様子を書い たものがある。没落していく一族の悲しい話である。中山厳水の編年紀事略の中にある「谷垣守」の記すところである。その一説を引用したい。

 谷垣守翁幼き時録せられしものに立田の八郎兵衛といふもの八つの時津野孫次郎殿の切腹を見たりしとなり此者の叔津野殿の宅の東脇に有りしそこへ切 を参りしに孫次郎殿の気に入て御主の衣類を小くして着せたり扇のなんのと云者を毎々やつて連れ参られし或時又叔母の所へ行たりし時切腹の使の供に来たと云
 此の子急ぎ津野殿へ行て前の桜の木へしがみ上り見るにかの使威儀を繕いて津野殿へ参りて其旨を述ぶ其時孫次郎殿は誰やらんと碁打御坐つて仰せには切れと かと御意にて碁を仕舞有しかくて行水ありて御切腹ありしが其腸を切らつしれた所はたしかに覚へず其介錯の太刀前へ光ると思ふ時脇よりわつと叫ぶとき此子一 つに叫んで木より得下りず其時脇より人抱き下したりとなり此の咄は石川孫左衛門へ直話の由なり云々

 親忠の悲壮な最期の様子が良くわかる。親忠は、確かに伊予宇和島二十万石の領主だった藤堂高虎とは、心が通い合う間柄ではあった。そうであれば、 長宗我部家の存続のために、広く協力をしてもらう方向に動くこともできたであろうと、思うのだが、窮地に追い込まれた人の心は怖いものである。

【写真出典】
伊吹山:wikipedia伊吹山
新聞葬式像:日本新聞博物館

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.