【知の庭】
2009.05.04      
徳川の長期政権の中でいかに家系を残すか

苦渋の選択をした島長宗我部家

没落した家系のたどる路

長宗我部 友親

 徳川家康は、慶長五年に起こった関ヶ原の戦で、石田三成を破り徳川政権を樹立したが、その時に、西軍についた大名のうち、その多くは移封されたり、縮小されたりはしたものの、その多くは残された。
 
■秦の始皇帝の流れ
 しかし、主力部隊として激しく戦った大谷家などいくつかの大名は取りつぶしにあっている。大坂の陣まで参加した長宗我部家もその取りつぶされた大名家の一つである。

豊臣秀頼の像
秦神社に奉納されていた長宗我部元親像と戸次川戦死者名

 長宗我部家の中興の祖は長宗我部元親で、土佐の岡豊山三千貫から興して、土佐の国を平定し、さらに末弟の長宗我部親房(島弥九郎親房)の敵をとることをきっかけに、阿波の国に入って、さらに讃岐、伊予と攻め込み、一気に四国を平定した。
 この長宗我部氏は「太閤顕記」などを見ると、元親が「秦元親」と正式の席で名乗っているように、「秦」を正式としている。
 元親が武運長久を祈るために、文禄年間に土佐の安芸郡井口村一宮神社に、出した棟札は長宗我部宮内少輔秦元親となっている。
 長宗我部家に伝わる系図を見ると、遠祖は古く中国からの帰化人で、その本流は秦の始皇帝の流れということになる。
 

豊臣秀頼の像
広隆寺

■太秦に住む
 系図に従ってみてゆくと、秦の始皇帝十二世の孫、功満王が、仲哀天皇の時代に、さらについで融通王が応神天皇の時代に日本に帰化したことになる。そして、仁徳天皇からその後裔の普洞王が、秦(波多)の姓をもらう。そして、推古天皇の時代になり、秦河勝が山城国葛野(かどの)郡をもらって、そこに太秦をつくる。
 そして、長宗我部の祖は信濃の国に移り住んでいたが、秦河勝二十六世の孫、秦能俊(よしとし)が、土佐の国に移り、土佐長宗我部を起こした、とされる。その能俊から二十一代目が元親となる。
 

豊臣秀頼の像
京都五條下の蓮光寺の長宗我部盛親の墓

■簡単には消え去ることのできない家系
 そのように見てくると、土佐長宗我部家は、日本の氏族の中でも筋の通った家である。関ヶ原の戦で、家は滅びたが、その後どのようにその一族が生きてきたのか、興味のあるところである。
 確かに司馬遼太郎のいうように、長宗我部家は、関ヶ原、そしてそれに続いて起こった大坂の陣を経て、歴史の表舞台からは消されてしまった。だが、その一族すべてが消え去ったわけではない。土佐の国一国を治めていた武士集団が、一気にいなくなってしまうということは現実にはあり得ないことである。
 長宗我部の家臣らは、後に入ってきた山内家をはじめ、細川家など様々な国に、再就職をしている。

■それぞれの大名の下に
 寺石正路の長宗我部盛親の関ヶ原後を書いた「長宗我部盛親」によると、引き取られた先の一部は次のようになる。

◎細川肥後守家中(肥後熊本)
千五百石 立石助兵衛 六百石 同子(28)
三百石  久武権助   三百石 町市之丞
四百石  町熊之助 百石  町大助
百五十石 山内三太夫  
   
◎立花左近将監家中(筑後柳川)
三百石  上野平太夫   
   
◎松平丹後守家中
三百石  十市惣右衛門  
   

◎松平長門守家中(長州萩)

三百石  吉松伊兵衛  
   
◎松平安芸守家中(安芸広島)
三百三十石 豊永四郎左衛門  
   
◎紀伊大納言殿(紀伊和歌山)
二千石  十市縫殿助  
   
◎保科肥後守家中(奥州曾津)
二百五十石 吉田次郎左衛門  
   
◎水野日向守家中
百五十石  山地興助  
   
◎稲葉美濃守家中
五百石   橋山又助 三百石 桑名茂兵衛
   
◎松平下総守家中  
百五十石  吉田庄助  
   
◎藤堂大學頭家中(伊勢安濃津藤堂高虎)
二千石   桑名彌次兵衛 三百石  桑名又右衛門
三百石   桑名源兵衛 百五十石 桑名七郎右衛門
百五十石  依岡三平 二百石  浅木三郎左衛門
百五十石  浅木兵太夫 百五十石 中内彌工衛門
百五十石  吉田三郎兵衛 百五十石 戸波又兵衛
六百石   齊藤茂左衛門 百五十石 入交助兵衛
二百石   安並忠兵衛 二百石  山内又左衛門
百五十石  中尾安左衛門 二千石  吉田式部
二百石   入交宗右衛門 七百石  押川玄蕃
千五百石  宿毛甚左衛門  
   
◎御旗本  
三千石   齊藤興惣右衛門  
千石    蜷川杢左衛門  

 ここで面白いのは、大坂の陣で激しく戦うことになる藤堂家や、徳川の旗本などに再就職していることである。も他、後に慶安の変を起こした由比正雪との関係で、幕府に呼び出されることになる紀伊大納言のところにもいっていることである。この乱で捕縛され、処刑された槍の名手丸橋忠弥は、長宗我部盛親の子といわれている。

豊臣秀頼の像
大坂の陣の八尾合戦配置図。寺石正路の「長宗我部盛親」より

■残った長宗我部の家系
 また、長宗我部の一族もいくつかに分散しながらも残されているのである。だが、残念ながら長宗我部家のその後を詳しく追ったものはない。
 やはり、歴史については、世の常で崩壊したものを追う流れはないのである。だが、丹念に見ていくと、表舞台で消されたものを、何とか残そうとする、力も陰ではあるのである。
 長宗我部の血筋は、大きく分けて、本流は元親の子盛親である。これについては、正史では、京都の鴨川で斬首となっている。だが、正室ではないが京都で浪人中に生まれた子供が何人かいたという説は強い。そして、その一人が、慶安大平記に出てくる丸橋忠弥である。この目白不動にある忠弥の墓には、はっきりと「長曾我部忠弥秦盛澄」と記されている。この盛親の流れについては、別項で触れる。

豊臣秀頼の像
寺石正路の「長宗我部盛親」

■いくつかの家系が残る
 さらに、元親の弟の血筋で吉良家(吉良左京進親貞)、そして香宗我部家(香宗我部左近大夫親泰)の流れが残っている。特に、香宗我部家は、斎藤利光の娘で本能寺の変の後も元親が面倒を見たとされる春日局の肝いりで、処遇されている。
 このほかにも元親の妹が、土佐一条家に入り、その血筋はのこっている。この中で、もっとも厳しく正面から土佐の地で残ったのが、元親の末弟の長宗我部親房(島弥九郎親房)の一門である。「長宗我部元親公由縁のもの」という、差出書を山内家に出して、いわゆる占領軍側に伺いを立てたのである。その心中は尋常ではなかったと思う。
 そのため、この親房系長宗我部家は大坂の陣の後、土佐に帰って、四年間入牢したうえで、「横目付」となって、家を残した。その苦衷は、系図への書き込みなどを見るとよく分かる。このように、没落した一つの家がその後どうなっていったのかを、追いながら時代のもう一つの姿を見つめてみたいのである。

【写真出典】
広隆寺:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』広隆寺

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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