【知の庭】
2009.04.06      
長宗我部家の宝刀「牛丸」
信親の最期、戸次川の合戦で使われる
信長に貰った「左文字」説は誤り?

長宗我部 友親

 大分の戸次川での長宗我部元親、信親父子の戦いは、戦国時代の日本の合戦史に残るものである。
 司馬遼太郎初め津本陽など多くの作家がこの戦のことを書いている。明治の文豪、森鴎外も、「長宗我部信親」と題する長文の詩に残している。


「森鴎外(林太郎)の『長宗我部信親』」

■森鴎外が詩を書く
 肥前で竜造寺隆信を倒して勢いに乗る島津軍は、筑前、筑後にも攻め上ってきた。このため危機を察知した大友宗麟は、大阪城にまで出向いて、豊臣秀吉に島津討伐を頼み込む。天下統一の最終段階に入ってきていた秀吉はこの申し出でに喜び、九州の島津討伐軍を編成する。
 そして、天正十四年(1586年)7月には、秀吉の部隊が島津軍を討つために、筑前、筑後、豊後に向かう。軍監となった仙石秀久(権兵衛)、それに長宗我部元親、信親父子ら四国勢は9月頃に豊後に入り、大友勢と合流する。

■夏草の賦
 司馬遼太郎は元親を主人公にした作品「夏草の賦」の中で、この戦での弥三郎信親の最期の場面をこのように表現している。

 弥三郎信親も乱軍のなかにいたが、その隊は次第に討ち減らされ、七百人になった。
 弥三郎は槍を折られ、太刀をぬき、みずからが馬を敵中に駆け入らせては戦った。太刀はかれの名付け親である織田信長から拝領した二尺七寸の左文字の大太刀であり、それを一閃させるごとに返り血をあびた。

 この戦で、弥三郎信親は戦死するのだが、信親に、長宗我部家の将来の夢を大きく託していた元親の落胆は何にもたとえようの無いものであった。したがって、元親のその後の人生は大きく変貌していくことになる。
司馬遼太郎も、この信親の戦死を、元親の生涯を題材にしたこの小説の、最期に持ってきて、筆を置いている。それくらいこの出来事は長宗我部家に大きな衝撃を与えた。


「長宗我部家の秘宝を祀るといわれる神棚(長曾我部久武家)」

■天正十四年
 文豪、森鴎外は、軍医として小倉に駐屯していた時に、戸次川の戦で起こった悲劇のことを聞き、興味を持ったようだ。自ら現場に行って、取材をし、感動して、森林太郎として長恨歌を残している。
 その詩は、次のような書き出しで始まる。

 頃は天正十四年
 しはす十二日の 朝まだき、
 筑紫のはても 冬蘭けて、
 霊山おろし 吹きすさむ
 戸次の川の 岸近く、
 仙石権兵衛ノ尉が家の子
 三好田宮が 率いたる
 一千余騎の つわものども
 先を争ひ 押し寄せたり。


 また、信親の戦う姿について、こう描く。

 中にも大将 信親は
 唐綾縅の 甲を着、
 蛇皮の冑を 戴きて
 馬を縦横に 馳せめぐらし、
 四尺三寸の 長刀を
 閃く稲妻 石撃つ火と
 見まがふ迄に 打ち揮ひ、


「信親の墓」

■二尺七寸の左文字
 そして、信親の最期の場面の記述は次のようになっている。

 乗りたる愛馬 内記黒も
 數箇處のいたでに 倒れければ、
 徒立ちとなり、長刀棄て、
 太刀抜き放って 戦ひぬ。
 そも此太刀は 信親が
 元服のをり 引出物に
 總見院殿の 賜はりし
 二尺七寸の 左文字なるを、
 けふしもおもふ よしありて
 日ごろ風きたる 兼光の
 太刀に代へてぞ 帯びたりける。

 信親最期の生々しい戦いぶりがよくわかる。ただ、これらの表記で気になるのは、信親が使った太刀についてである。司馬遼太郎、森鴎外がともに、織田信長から信親元服の際の引き出物としてもらった「左文字」としている。そのほうが自然で、わかりやすい。だが、実際は違うのではないか、と思う。


「長宗我部家に伝わる宝刀『牛丸』の添え書き」

■「牛丸」の添え書き
 それには理由がある。先にも書いた「秦長曾我部舊記」による記述は次のようになっている。

 「信親大長刀ヲもって敵八人を薙ぎ伏せ、長刀ヲも打ち折り、刀にて六人を胴切にして捨て、終に討ち死にしける」

 そして、もうひとつ、熊本に残る文書には次のような記述がある。これは「牛丸」という刀の添え書きとして残されていたものだ。
 「牛丸」は長宗我部家に伝えられていた宝刀で、この刀は今はある理由で朝鮮半島の土の中で眠っている。この書付は戸次川の戦について次のように表現している。

■乱軍の中で討ち死に
 「信親、雄を揮って大長刀にて、敵八人を薙ぎ伏せ、長刀も打ち折れ、牛丸刀にて四人を胴切り、乱軍の中に、討ち死に。よって牛丸の刀も島津の手によりて残り」

 以上のような表現になっていて、信親は長宗我部家に宝刀として、先祖より残されていた「牛丸」を持って戸次川で奮戦したことを明記している。
 細かい様子は「奮記」とは異なるが、信長から貰った刀というよりも、長宗我部家に伝わっていた、宝刀で戦ったと見るほうが、現実的なような気がするが、どうであろう。
 左文字説は、森鴎外が、戸次川の地元の人が想像で話したのを聞き、詩に書き込んだ。それが今日まで残っているのではないだろうか。これはあくまでもかってな想像である。しかし、戸次川での信親の奮戦ぶりを書き、さらに使用した太刀にまで書き及んでいる文書はこの「牛丸」の添え書きしか残されていないのである。
 此の添え書きには、牛丸は「長さ二尺」とある。

 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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