【知の庭】
2008.11.25      
  「先祖 元親公 少知給り」という言葉が
   意味するものは

  大阪の陣に加わり手傷

  入牢4年で、横目付けに

長宗我部 友親

  「差出」という言葉に、潜む思いには、いかばかりのものがあったのだろうか。浮かんでくる父親の戦場での苦しい姿とともに、多くの複雑な思い。そうした中で、しかし「やむをえない」という、書かねばならない追い詰められたものが、そこにはあったのであろう。
 手文庫に収められた、古文書の中に、わが家の3代目「與助」が、お城(山内家)に提出した「差出」の写しと思われる文書が残っている。

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■忠義に奉公

 その書き出しに「私亡父五郎左衛門儀」という項目があり、そこに「元親公由縁をもって」、「先年大阪の陣に籠城仕り候」といった表現が続く。そして、五郎左衛門は大阪夏の陣が終わった元和元年(1615年)から同4年まで入牢し、翌同5年に、26歳で山内家の2代目当主の忠義に赦免されている。
 また、「先祖 元親公 少知給り」ということは、先祖が元親公であり、少ないが知行地をもらっていたということを謙遜しながら語っている。
 わが家に伝わる系図は、長宗我部元親の四男である長宗我部親房(島弥九郎親房)を初代として、2代目が長宗我部(島)五郎左衛門、3代目が長宗我部(島)與助ということになっている。
 そして、この與助が、山内忠義に奉公するに当たって「差出」、つまり、それまでの自分の家の履歴を明らかにすることを求められたのであろう。

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秦神社(高知市)に所蔵されている長宗我部元親の肖像


■揺れる心

 だが、いまや既に土佐は山内家の世となっている。そんな中で、長宗我部家との関係をどのように表現できるか、それを考えた末の表現が「少知給り」であったのだろうか。書面を見ると、微妙な揺れる心が透けて見えてくる。

 五郎左衛門はこの「差出」でもわかるが、大阪夏の陣で、かなりの手傷を負って帰ってきている。本来なら五郎左衛門は長宗我部家ゆかりのものとして、処断されてしかるべきだが、忠義は入牢することでそれを許した。 ただ、姓は「島」を名乗らせ、もちろん「長宗我部」は封じた。だから、長宗我部は「過去帖」に押し込められて残るのみとなった。
 
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大坂夏の陣図屏風・右隻(大阪城天守閣所蔵)


■「縁」を残すため

 忠義は島五郎左衛門を、「御城中横目」として抱えて、捨扶持を与えた。「差出」によると、五郎左衛門は43ヵ年も山内家に仕えて、万治4年(1661年)に病死している。忠義から香料が五郎左衛門には届けられている。
 いずれにしても、大阪の陣で、徳川家康と戦い、土佐に帰国した長宗我部家ゆかりの者を、山内家は、表向きだけだとしても、召抱えている。逆に、長宗我部家の人間であるが、五郎左衛門は、耐えて入牢までして生き残ってきている。それは「由縁の者」の縁を、後の世代に残してゆくということであったのであろうか。

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【写真出典】
『ウィキペディア』フリー百科事典:大坂の役


 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
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