【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (48)   三重県・鳥羽城
2016.7.13

古文書で三層の天守閣を確認

九鬼水軍を天下に轟かす

長宗我部友親

 

 

 鳥羽城は、海側に突出して大手門が築かれていたため、「鳥羽の浮き城」とも呼ばれ、もともと水軍で知られる九鬼氏の居城であった。
織田信長、豊臣秀吉に仕えた九鬼嘉隆は、中世に橘氏の居館のあった跡地に鳥羽城を築き、水軍であった嘉隆は、織田信長の石山本願寺攻撃の際に、船200隻で木津川口あたりに出陣して毛利を攻め撃破し、その名を知られた。

  信長の死後、豊臣秀吉の家臣となり、朝鮮の役にも出陣したが、敗れている。嘉隆はその責任をとって、家督を三男の守隆に譲り、自分は隠居した。しかし、そ の後関ヶ原の戦いに際して、守隆が徳川家康に与したにも関わらず、父親の嘉隆は石田三成方について自ら息子の城となっていた鳥羽城を攻める。

  戦いは家康方の勝利となり、父親の嘉隆は自害し、守隆が父親の隠居領であった5千石も合わせて5万6千石で鳥羽城を維持する。だが、守隆が病に倒れた際 に、家督相続争いが起こってしまい、水軍で天下にその名を轟かせた九鬼氏は、幕府の裁定によって鳥羽の地を離れることとなった。

 九鬼氏の移封後、鳥羽城には常陸国の真壁から内藤忠重が入ったが、その後、城主は次々と変わって、ようやく下野国から着任した稲垣照賢(てるかた)によって、鳥羽の藩主家が定着する。

  鳥羽城については、かつてのその本来の姿がなかなか確認できなかったが、平成25年(2013年)に、鳥羽市立図書館に、天守の具体的な寸法などが記され た古文書が発見された。それによると、天守閣は三層で一層目、二層目は正面約9メートル、奥行き約11メートルで、三層目が正面、奥行きともほぼ6メート ルであった。

 鳥羽城は、現在の鳥羽水族館の裏手にある小高い丘に、あった。武家屋敷跡には、城山公園などが造られていて、本丸と旧家老屋敷の石垣などが現在は残っている。


 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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