【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (47)   福島県・相馬中村城
2016.5.17

勇壮な相馬の馬追いの神事

「一氏相伝」の数少ない家系

長宗我部友親

 

 

 現在の市の名称の由来となっている「相馬氏」は、その源流を平将門と伝えられる。鎌倉時代は源頼朝の奥州征伐に従軍して、軍功を立てるなど奥州の豪族として名を馳せた。
 徳川家康による改易が、一時あったものの、相馬藩は徳川時代に「一氏相伝」をおおむね通した数少ない藩の一つである。

 相馬氏の築城による相馬中村城は、福島県相馬市中村にある。阿武隈山地から伸びる小丘陵に築かれた平山城である。城の南側に流れる宇多川を天然の外堀として、この川から引いた水で北面、東面に濠を造っている。

  相馬氏は天正十八年(1590年)、相馬(そうま)義(よし)胤(たね)が豊臣秀吉の小田原の陣に加わり、陸奥国の宇多・行方(なめかた)など4万8千石 を安堵された。しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いの際、参陣しなかったために石田三成側とみなされ、家康によっていったん領地を召し上げられた。
 だが、伊達正宗の仲介が功を奏して、「義胤が隠居して、その子の利胤が後を継ぐ」ことで、本領安堵となった。その後、明治期まで相馬藩は続く。

 利胤は、相馬藩の城下町の整備に乗り出したが、相馬氏は戦国時代を通して、陸奥の国を長く治めてきたため、家臣は館を構えて、村々に散在していた。したがって、統治がしにくく藩自体の再構築も同時に必要であった。
 また、相馬藩は小藩だったが、一千人という家臣を抱えていたために、利胤は藩の財政維持のために家臣に知行を返上させるという大ナタを振るった。明暦年 間(1655−1658年)には、忠胤が、領内を七郡に分けるなどの整備を行い藩庁の機構なども整備して藩の立て直しを行った。

 戦国時代から相馬藩は馬追いなどで知られている。産馬を増やして、相馬藩の産業として育てていった。相馬の馬は、関東全域にも移出された。また、神事としての「相馬の野馬追い」は七百年の伝統を持っている。勇壮な絵巻を繰り広げることで、今日まで伝統を守っている。


 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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