【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (46)   福井県・敦賀城
2016.3.14

大谷吉嗣が城主となる

来迎寺に敦賀城の中門が残る

長宗我部友親

 

 

 敦賀湾に臨む北陸の街、福井県敦賀市鞠山に築かれた城である。
敦賀城の位置する越前は、織田信長によって天正3年(1575年)に平定された。その後本能寺の変により信長が討たれ、豊臣秀吉の政権になると、秀吉の家 臣であった蜂谷頼隆が敦賀をもらいうけ、敦賀城を築城する。三層の天守閣があったという。しかし、頼隆は秀吉の島津攻めに加わった際に、病死した。

 そのため天正17年(1589年)に、秀吉によって大谷吉継が敦賀城に封せられた。吉継は、このとき敦賀城を大改修している。特に、吉継は敦賀を物流の拠点として発展させ、城下町についても整備拡張を図る。
 だが、大谷吉継は、天下分け目の関ヶ原の戦いで、石田三成側につく。このとき、吉継は三成に勝ち目はないと、家康との戦をやめるように強く説得したが、三成はそれを理解しなかったため、友情で、敗け戦を覚悟のうえ三成方に加担、敗れる。

 戦いのとき大谷吉継はハンセン氏病にかかっていて、ほとんど目が見えなかったという。だが、白い布で顔を覆って最後まで奮戦、関ヶ原西方の藤川で自害したといわれる。
 大谷吉継の敦賀城は、徳川家康によって没収される。吉継の家臣であった蜂屋将監によって引き渡され、一時は代官が派遣されていたが、徳川政権による「一国一城令」によって元和2年(1616年)に廃城とされる。

 その後、越前の小浜藩主であった酒井忠直の二男、忠稠が忠直の遺言によって敦賀郡内に敦賀藩を立藩した。酒井家最後の藩主となった忠経は藩名を明治3年(1870年)に鞠山藩と改名した。
 敦賀城の面影は、現在ほとんどないが、来迎寺には敦賀城から移されたという中門が寺の正門として残っている。また、八幡神社には、大谷吉継奉納の龍の木彫りなどがあり、亡き大谷吉継を偲ぶことができる。


 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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