【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (45)   高知県・中村城
2016.1.12

土佐一條氏が中村御所を造る

四万十川の清流には沈下橋も

長宗我部友親

 

 

 中村城の築城年は定かではない。しかし、為松氏が築いた為松城が最初といわれている。幕府の管領職にあった細川政元が家督相続の争いに巻き込まれて、暗殺されたことから室町幕府の統制がほころび始めた。そして応仁の乱(1467年)が起こり、戦国時代へと入っていく。
 京の都の混乱を逃れて関白職であった一條教房も荘園を持っていた土佐の中村(現在の四万十市)へと居を移すことになり、この為松城を本拠とする。
 
 一條教房は、都を偲んで、この城を大幅に改築し、さらに京の都に似せた城下町を造る。お城は「中村御所」と呼ばれ、その町並みの面影は区画などが現在も残っている。鴨川、東山といった都に似た地名が中村には多い。小京都と呼ばれる。

 だが、この一條氏も、教房の後、家房、兼定と続いた後、兼定がその乱行を理由に家臣の信望をなくし、土佐国内で精力を広めてきていた長宗我部氏に襲われる結果となる。
 兼定は豊後の大友宗麟を頼っていったん逃げた後、もう一度天正3年(1575年)長宗我部元親軍と渡川(現在の四万十川)で決戦に挑むが、敗退する。元親はこの戦いで、土佐一国を完全に治めることとなり、中村城には弟の親貞を送り込む。

 慶長4年(1599年)に元親が没して、その子盛親が長宗我部家を継いだが、翌年に起こった関ヶ原の戦いで、徳川家康に敗れ、盛親は土佐国を没収される。
 そして、中村城には、慶長6年(1602年)、長宗我部に代わって土佐国を譲り受けた掛川城主の山内一豊の弟の康豊が入った。
 康豊が没した後はその子の政豊が家督を相続したが、継嗣がなく絶家となる。その後、明暦2年(1656年)、山内家三代藩主忠豊の弟の忠直が中村に入り立藩する。だが、その後も中村藩の命運は順調にはゆかず、元禄5年(1692年)に廃藩とされた。

 四万十市は、清流四万十川の流れが美しくアユや手長エビなどがとれ、太平洋に面しているところから海の幸も多い。川の流れが増えると橋が沈む、沈下橋でも知られる。城下には幸徳秋水の墓がある。


 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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