【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (44)   岩手県・盛岡城
2015.12.28

「盛りさかえる岡」、南部氏の居城

城下の裁判所の庭には石割桜

長宗我部友親

 

 

 盛岡の町は、岩手山を北西に望んで、丘陵に囲まれた形の盆地の中にある。そこに盛岡城はそびえていた。JRの盛岡駅を降りて、海運橋の下を流れる北上川 を眺めながら進むと、盛岡城址に行き着く。盛岡城を取り巻くようにある現在の亀ヶ池、鶴ヶ池などはかつての内堀の跡である。また、裁判所前の庭には、大き な岩を割って伸び、毎年見事な花を咲かせる石割桜がある。
 
 盛岡城は、慶長2年(1597年)に着工され、慶長8年(1603年)には、形が整ったといわれる。しかし、その後何度も水害に見舞われていて、盛岡城が南部氏の居城として落ち着くには40年ほどの月日がかかり重直(しげなお)の時代になるといわれる。
 町の呼称が「不方来(こずかた)」から「盛りさかえる岡」である「盛岡」に代わったのは慶長8年のころとされている。

 南部氏は、八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光の五世にあたる加賀美遠光の三男であった光行(みつゆき)が藩祖とされ、その歴史は古い。光行は甲斐国巨摩郡 南部郷に住み、南部と称したという。光行は源頼朝に従って、奥州平泉の藤原泰衡討伐軍に加わり、軍功を立てて三戸に移住、この地に住むようになったとされ る。
 秀吉の時代には、南部信直(なんぶ・のぶなお)が、小田原の陣に参戦し、陸奥国の所領を安堵され、盛岡藩の基礎を築いた。

 信直が、没した後、その子の利直(としなお)が関ヶ原の戦いで、徳川家康につき盛岡藩は南部氏による統治が継続されることとなる。利直は寛永9年 (1632年)に没し、その後を重直が継ぎ、この時代に盛岡城は完成したとみられる。しかし、重直は気性が激しく、重臣の意見を無視して、家臣の名簿上に 墨で線を引き、家臣の解雇を行った。このことが「墨引き人数」と言われ恐れられた。
 旧城下の寺院地区の大慈町にある大慈寺の山門のあたりには盛岡出身の「平民宰相」とよばれた原敬の墓があり、墓碑には西園寺公望による「原敬墓」の文字が刻まれている。

 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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