【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (43)   埼玉県・川越城
2015.6.18

松平定信が城下町を整備

家光誕生の間、春日局の化粧部屋も

長宗我部友親

 

 

 川越藩は、北条氏が滅亡して徳川家康が関東に入府した際に、酒井重忠が立藩した。天正18年(1590年)であった。
 もともと川越城は、室町時代に扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の持ち朝(もちとも)が太田道真・道潅親子に命じて造ったのが最初である。家康が江戸に基盤を築いて以降の川越城には、幕閣で実権を握る譜代や名家の大名が相次いで入っている。
 川越城の本丸御殿、家老詰所は、幕末の嘉永元年(1848年)に松平大和守斉典(まつだいらやまとのかみ・なりつね)が完成させたが、明治維新の際に解体されて、現在は大広間と、玄関部分が残っているのみである。
川越大師は慶長4年(1599年)、天海僧正が法灯をを継いだことで寺勢が盛んになった。寛永15年(1638年)の川越の大火で山門以外を焼失したが、 家光が直ちに復興を命じて、江戸城紅葉山の別院を移築した。家光誕生の間や春日局の化粧の間が残っているのもこのためである。

川越市役所前がかつての川越城大手門の跡となっていて、その石碑がある。また、太田道灌の像も市役所前の植え込みのなかに立っている。

 幕閣の重鎮が川越藩には入っているが、島原の乱での戦功により、寛永16年(1639年)には、松平信綱が入封している。信綱は代官の大河内久綱の子だったが、家光の小姓を務めて、その才能を見いだされ、老中にまで上りつめている。「知恵伊豆」とも呼ばれた。
 有名な歌舞伎の「慶安太平記」では、江戸城の濠の深さを計ろうとする丸橋忠弥とそれをとがめようとする場面に登場している。
 信綱は川越城の本丸、二の丸、三の丸などの大改修を行い、西大手を正門として道路を整備した。また、城下町についても、藩士の侍屋敷、町人の町屋敷や寺社地などの地割りを実施して、街並みを整理した。

 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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