【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (42)   鳥取県・米子城
2015.1.22

天守閣跡には苔むす石垣

商都の面影残す町並み

長宗我部友親

 

 

 米子城は鳥取県米子市の久米町に築かれた城で大天守と副天守があったが、現在は石垣だけが残されている。
 戦国時代の米子は、尼子氏と毛利氏がお互いに覇権を争っており、奪い合いを繰り返す戦略上の拠点となっていた。豊臣時代に入って、伯耆国の西部は毛利氏 が支配するところとなり、米子は毛利一族の吉川氏が治めた。天正19年(1591年)に吉川広家は米子の湊山で米子城の築城に着手した。
 慶長五年(1600年)の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、吉川広家は石田方についたために減封され、広家は岩国藩に移った。伯耆国の藩主には豊臣氏の三中老の一人といわれた中村一氏の嫡子である中村一忠が入り、米子藩を立藩した。
 中村一氏が関ヶ原の戦いの直前に急死しており、一忠は米子入国時には11歳の若さであった。したがって、実際に藩政を動かしたのは叔父の中村一栄と徳川家康から一忠の後見役として送り込まれた横田村詮であった。
村詮は米子城を完成させ、米子の城下町の整備などの街づくりにも精力的に携わった。しかし、やがて一忠の側近と対立するようになり、一忠派に殺されてしま う。家康はこれに激怒し、一忠を謹慎処分とした。そして、一忠は20歳で急逝、中村氏は改易となる。中村氏の後には美濃黒野藩から加藤貞泰が入るが、貞泰 は大坂の陣で功績を上げたことによって、伊予の大洲藩に移る。これによって米子藩は廃藩となり、加藤領は池田光政の領地となる。池田氏は米子城に家老を入 れて、治めさせた。
米子の城下は18町と呼ばれる街並みがあり、この街並みの中を流れているのが、賀茂川で、この川が米子城の外堀の役目を果たしている。また、賀茂川は中海 に流れ込んでおり、中海に入ってくる船と商家を繋いでいる。川には天神橋、京橋などがかかっていて、町中には白壁の美しい家並みがある。周辺には土蔵も残 り,かつての商都の面影が感じられる。

 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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