【長宗我部の庭】日本の城めぐり(40) 福岡県・小倉城
長宗我部の庭】日本の城めぐり (41)   千葉県・大多喜城
2015.1.22

徳川四天王の本多忠勝が築城

房総の山並みや市街が一望に

長宗我部友親

 

 


 千葉県の大多喜町に本社を置く「いずみ鉄道」に乗って「デンタルサポート大多喜駅」で降りると大多喜城が山上に眺められる。
 大多喜城の天守閣は昭和50年(1975年)に再建されたもので、今は千葉県立の総南博物館となっている。ただ静かなたたずまいで、ほっとした風景が広がる。
 大多喜城は、戦国時代の大永元年(1521年)に、甲斐の守護職であった武田氏の流れをくむ武田信清(真里谷信清)が「小田喜城」として造ったのが最初 で、「根古谷城」ともいわれている。その後、徳川家康の関東入府にともない、徳川四天王のひとり本多忠勝が十万石で大多喜城に入って、立藩した。

 本多忠勝入府は、当時勢力を持っていた安房国の館山城主里見義康をにらんでのものであった。忠勝は関ヶ原の戦いで、徳川家康が勝利して、関東の勢力圏が 定まったことから、慶長6年(1601年)に、伊勢国桑名十万石に転封となって、旧領のうち五万石を忠勝の二男忠朝が継いだ。しかし、その後、大多喜城の 城主は次々と変わることとなり、落ち着いたのは江戸時代も中期ころとなった元禄16年(1703年)で、相模国甘縄から松平正久(大河内正久)が入府して からとなった。大河内氏はその後9代、170年にわたって大多喜を治めることとなる。
 現在の大多喜城の天守閣は、本多忠勝が築城した際の絵図を元に再現されていて、最上層の天守からは大多喜の街並みから房総の山々などが一望される。
 大多喜の城下町は、かつての姿を残していて、江戸時代に大多喜藩の御用達であった渡辺家などが残っている。本多氏の菩提寺である良玄寺(りょうげんじ)もある。本堂の墓地には忠勝とその妻、また大坂の陣で戦死した忠朝の墓がある。

 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

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