【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2013.12.10

石垣や濠を残した風情豊かな山城

秀吉の兵糧攻めを受けて経家自決

池田長吉が近世の城郭に改修

長宗我部友親

 

 


 鳥取城は、戦国時代のさ中、1500年代の中ごろ、天文年間に築城されたといわれる。かつての因幡国邑美群であった鳥取県鳥取市にある山城である。
 現在は、天守閣など構築物はほとんど残っていないが、石垣や濠はそのままあり、中世郭の風情をとどめている。現在は天守台、復元された城門などがあり、国の史跡に指定されている。

 鳥取城は、JR山陰本線鳥取駅前から、若桜街道をまっすぐ行くと、正面に城のある久松山が現れてくる。城は、その久松山の自然の地形を利用して、因幡国の守護であった山名誠通が築城したと、伝えられる。
 戦国時代には悲しい物語を、鳥取城は残している。中国地方に勢力を持っていた毛利氏と、中国攻めを計画した織田氏の二つの巨大勢力の間に位置していたことが、その悲劇の大きな要因となった。三木城や備中高松城と似た運命に見舞われたのである。
 当時城主であった山名豊国は、1580年織田信長方である羽柴秀吉に攻められ、3か月の籠城の末、秀吉に降伏した。しかし、すぐに西の毛利氏に攻め込まれて、再度降伏。その後も何度か戦いがあり、1581年(天正9年)毛利氏の重臣であった吉川経家が城主に入った。
 そこで、羽柴秀吉が二度目の鳥取城攻めを敢行する。これが熾烈であった。三木城攻めにも使った秀吉得意の兵糧攻めである。鳥取城に籠城していた女子供を 含み、兵糧がつき、餓死者が続出し、城中は凄惨な様相を呈した。そこで、城主の吉川経家は、自決と引き換えに秀吉との和議を結んだ。「呪われた鳥取城」と いわれたのはこの時のことである。鳥取城の正面入り口付近には、自らを犠牲にして城兵らを救った吉川経家の銅像が建てられている。
 吉川経家の代わりに、秀吉の家臣・宮部継潤が入り、鳥取城は織田勢の山陰攻略の拠点と位置付けられた。

 関ヶ原の戦い後は池田長吉が入って、鳥取城は近世城郭に改修された。その後、池田光政が因幡伯耆から32万5千石で入って、鳥取城は大規模城郭に強化され、さらに、岡山藩の池田光仲が鳥取城主となって、この池田氏が江戸時代を通して12代続く。
城下の新品冶(しんほんじ)町にある景福寺には、大坂の陣で活躍した後藤又兵衛基元次と荒木又衛門の墓がある。景福寺は鳥取藩の家老であった荒尾家の菩提寺で、1633年(寛永10年)に光仲が岡山から鳥取に移封されたときに、この地に移したものである。

 

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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