【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2013.7.16

水野勝成が築城

5重6階の天守閣

島津、毛利など西を固める城

長宗我部友親

 

福山城天守閣 


  福山城は、備後国、福山市の丸之内1丁目にあり、国の史跡に指定されている。福山城を築いたのは、徳川家譜代の水野勝成(みずの・かつなり)だが、天 守閣をはじめ、淀君が使ったといわれる御湯殿などは、太平洋戦争時の米軍の空襲で焼失した。現在の天守閣は戦後に復元されたものである。

 福山は、もともと福島正則の領地であったが、元和五年(1619年)に改易され、水野勝成が十万石を領して、この地に入った。
 勝成はかつて「鬼の日向」と呼ばれた歴戦の勇士。毛利、島津などがいる西国の砦として福山を位置づける意味で、幕府からこの地に配された。
 勝成は、福山藩を立藩するとともに、直ちに築城に取り掛かり、元和八年(1622年)に福山城を完成させた。天守閣は5重6階だったと伝えられる。この城は久松城とも呼ばれる。
 勝成が選定した地は、南に瀬戸内海を臨み、西側、東側ともに河川がある。自然の要衝であり、また、交通では山陽道に近く、海も使え、商業の発展も望める。
勝成は城下町の整備にも力をいれ、産業として畳表や木綿の生産を積極的に行い、この船出しに、鞆港を活用した。
 水野家は、勝俊ら5代まで続いたが、断絶し、その後には下野国宇都宮から阿部正邦(あべ・まさくに)が入った。しかし、凶作が続いたこともあり、安部時代には、領内で打ち壊しを伴う一揆が続発し、藩政は難航した。

  現在残されているものとしては、天守に通じる筋鉄門(きんてつもん)が知られる。1階の扉や門柱に鉄板が打ち付けられ、厳重な構えである。国の重要文化財 になっている。城内は、整備されていて、二の丸の石塁跡、などが残っている。また、水野家と親交のあった剣豪の宮本武蔵が福山を訪れた際に腰をかけたとい われる石が備後護国神社の境内にある。

 
武蔵瞑想石

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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