【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2013.5.14

福知山盆地の広陵にある平山城

有馬氏が厳しい総検地を実施する

朽木氏が江戸時代藩主として2百年続く

長宗我部友親

 

福知山城天守閣 


  徳川幕府の体制となって、遠江国横須賀から有馬豊氏が入って、福知山藩の藩主となった。もともとこの地には塩見氏の居城があったが、織田信長の命によ り、明智光秀の丹波攻めによって塩見氏が滅ぼされた。その際、塩見氏の居城であった横山城を光秀が、大幅に修築して福知山城と改めたいきさつがある。

  福知山城に入った有馬氏は「有馬総検地」といわれる、厳しい検地をおこない、石高を二倍の十二万国にも大幅に増やしたといわれる。このために領民は苦しみ 有馬氏は恨まれた。その後、有馬氏は筑後の久留米に移封され、福知山には丹波亀山から岡部長盛が入った。その後も、福知山藩の藩主はなかなか定まらず、一 代限りの藩主が四氏も出ている。
 藩主が落ち着いたのは、寛文九年(1669年)に常陸国土浦から入った朽木稙昌(くつき・たねまさ)氏で、十三代続いて、明治維新を迎えた。
 
 朽木氏は入封後、藩主が次々と変わり、そのうえ災害などもあって、窮乏していた反省の立て直しに入った。朽木氏は、藩政を質素倹約で徹底し、その気風は一貫して福知山では続けられた。
 もともと、福知山は「福智山」の字を使っていたが、享保十三年(1728年)に改められ、丹波の小京都として栄えた。六代の綱貞(つなさだ)は狩野派を招いて絵を鑑賞し、また石州流の茶道にも通じた。文化を広めた綱貞は地誌である「丹波志」の編纂も行った。
 また、八代昌綱(まさつな)は前野良沢に蘭学を学び、「西洋銭譜」などを著し、蘭学のパトロンでもあった。

 福知山城の本丸は、福地や盆地の中央の西南から長く突き出た広陵の先端にあり、平山城である。石垣は野面積で、明治四年(1871年)に廃城となったが、昭和六十一年(1986年)に天守閣が再建されている。朽木氏の菩提寺は法鷲寺(ほうじゅじ)である。

 
城下町のまちなみ

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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