【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2013.2.12

京極高次が築城する

大坂の陣では和議に尽力

京極氏転封後は酒井氏が入城

長宗我部友親

 
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  関ケ原の戦いの功により、近江国大津の城主であった京極高次が、徳川家康から若狭国を与えられる。高次は、丹羽長秀らの居城であった後瀬山城にまず 入ったが、中世に造られたこの城が山上にあり不便なため、平野部で海に面した小浜に、新たに城を造ることにして、その地に小浜藩を立藩した。京極高次の正 室はお市の方の娘、淀の妹の初である。
 京極一族は、もともと琵琶湖の北方「北近江」の守護の家柄で、関ヶ原の戦いでは家康側についた。このため当時の高次の居城、大津城は西軍に攻められ落城した。しかし、家康は1万を超える西軍を足止めしたこの高次の戦いを評価して、高次に若狭一国を与える。
  
 小浜城は、1601年に京極高次が築城に着手したが、高次は完成を待たず慶長14年(1609年)に亡くなり、その子の忠高が、小浜城の築城を続ける。 そして、忠高は大坂の陣では、母親の常高院(初)とともに家康と淀君の間に入り和議に尽力する。その功もあって、忠高は寛永11年(1636年)出雲国な どを加増され、出雲国松江に転封される。
 京極氏の後には武蔵国川越から酒井忠勝が入り、そのまま酒井氏が小浜城主として、明治を迎える。小浜城は、酒井忠高が引き継ぎ、二条城の様式を取り入れて本丸、天守閣を造営し、酒井氏の代でようやく完成する。
 忠勝は、三代将軍となった徳川家光の信任が篤く、大老に就任するなど幕閣の中枢として活躍した。慶安4年(1651年)に家光が没した後、由比小雪らによる慶安の変が起こるが、これは未然に防がれる。
 忠勝は天守閣を完成させるとともに、小浜の城下町の整備も進めた。小浜の町は、若狭湾に面していて、日本海に流れ込む南川と北川に挟まれた中洲に位置する。海辺から少し入ったところにかっての廓町があり、そこが水上勉の小説「波影」の舞台にもなっている。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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