【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2012.12.11

兵と領民の命を救うため自刃

羽柴秀吉の兵糧攻めに遭う

枕元にチューリップの花

長宗我部友親

 
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 三木城は現在の兵庫県三木市上の丸町のあたりにあった。
 室町時代の15世紀の終わりごろに、別所則冶(べっしょ・のりはる)によって築城されたといわれる。その後尼子氏や三好氏らに攻められたが、落城は免れてきた。
 しかし、則冶から四代目の城主、別所長冶の時に西に勢力を伸ばしてきた織田信長の毛利攻めに遭う。
 当初、長冶は信長の毛利攻めの先鋒を受け持つことになっていた。だが、加古川の城で行われた軍議に参加した際に、信長から毛利攻めの総大将を任せられていた羽柴秀吉との間にひびが入り、長冶は突如信長に反旗を翻す。
 このため、秀吉の3万の軍に三木城は取り囲まれる。三木城の勢力はせいぜい2千であった。この時、秀吉は一気に攻めることを避けて、ジワリと兵糧攻めをとる。1年8か月にわたる兵糧攻めで、飢えから籠城した兵士は壁土まで食べたという悲惨な状態になった。
 これを見かねた若き城主の長冶は、降伏の勧告に来た秀吉の使者に、兵と領民を助けることを条件に開城を承知する。

「今はただ 恨みもあらじ 諸人の命に代わる わが身と思えば」

 時に22歳であった長冶の辞世の歌である。

 この三木城の戦と城主の別所長冶のことを、司馬遼太郎は「チュ−リップの城主」というタイトルの短編に書いている。
 その作品には、長冶が自刃した時に城主の枕元に飾られた花について次のように描かれている。

 遺体のそばに香った花は、蒲生氏郷が愛した油筒の花挿しの写しというものに、一輪くっきりと活けられ、大輪の花びらは可憐な濃桃色を示し、雄蕊は黒く、一見して百合とも蘭ともつかなかった。

 司馬遼太郎は、その花はチューリップではなかったか、としている。

 三木城跡は、現在二の丸公園として整備され、公園内には別所長冶の石像が建っている。また、二の丸の南側には別所氏ゆかりの雲龍寺があり、長冶の首塚がある。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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