【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2012.11.13

中山道と三国街道が交差する要衝

乾櫓、東門などが残る

長宗我部友親

 
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 上野国高崎はもともと和田氏が支配していた土地である。風雲急を告げていた戦国時代末期の天正18年(1590年)。徳川家康が関東に入った際、家康は 重臣の井伊直政に、関東の北側の防備を固める狙いで群馬郡箕輪(みのわ)を与えた。直政は、その郡内にあった中山道と三国街道とが交差する要衝である和田 氏の古城を居城と定めて、その周辺の地を高崎と改めた。

 ところが、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、井伊直政は徳川家康の四天王の一人として、おおいに戦果をあげた。そこで、敗れた西軍の総帥石田三成の居城であった近江国佐和山18万石をもらうことになり、高崎から佐和山に移った。
 高崎には上野総社にあった諏訪頼水(すわ・よりみず)が入ったが、慶長9年(1604年)には、酒井家次(さかい・いえつぐ)が下総国臼井から入封し た。その後、高崎城主は次々と交代して、元和5年(1619年)には、下総国小見川から安藤重信(あんどう・しげのぶ)が入封した。
 重信は2代将軍秀忠に仕え、老中職にあった。その後も安藤家が三代にわたって高崎城主をつとめた後、元禄8年(1695年)に、備中国松山に移され、安藤家の高崎支配は終わった。
 安藤氏の後には、下野国壬生から松平輝貞(まつだいら・てるさだ)が入り、松平氏が幕末まで、高崎藩を治めた。
 
 高崎城は、領地の南東を流れる烏川と碓氷川が合わさった場所を、自然の要害と見て、その左崖に位置して、築城されている。崖上に堀を掘って本丸を置き、四隅に二層の隅櫓をめぐらせている。
 本丸を取り巻いて、二の丸、三の丸を配し、武家屋敷なども置かれている。現在は、三の丸の堀と土居、そして乾櫓、東門などが残っていて、乾櫓は群馬県指定の重要文化財となっている。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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