【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2012.7.24

綱吉も一時城主として入る

利根川などの防水に取り組む

長宗我部友親

 
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  館林城は、群馬県館林市城町の地に、室町時代中期に築城されたとされるが、現在は本丸の土塁などわずかな遺構しか残っていない。    
 室町時代の城主、赤井氏は関東に遠征してきた上杉謙信に追われてその館林城を明け渡し、代わって長尾景長が治めた。
 その後、館林城は北条氏の手に落ち、北条氏滅亡後は徳川家康の権力下に置かれる。

 徳川家康の政権になって、最初に入封し、館林藩を立藩したのは小牧・長久手の戦で、豊臣秀吉を崩し、井伊直政、酒井忠次、本多忠勝とともに徳川四天王と呼ばれた榊原康政である。
 康政は、館林城に入ると、直ちに城郭の拡張土木水利事業などを進め、城下町の整備を行った。また、周辺にある利根、渡良瀬川の築堤事業なども行った。

 だが、その後、館林藩はたびたび城主が入れ代わり、三大将軍家光の第四子、綱吉も一時25万石の領主として、館林に入っている。綱吉は参議に任じられたため「館林宰相」とも呼ばれた。
 綱吉は幕府から二万両を下賜され、寛文3年から2年間で、館林城を大改築した。この際、利根川沿岸の村民に組合を作らせ、防水事業の徹底に努力した。
 綱吉は五大将軍に就任したが、その後はわずか2歳の綱吉の子の徳松が城主になったものの、5歳で没したため館林城は一時取り潰された。
 この館林廃城から24年後の宝永4年(1707年)に松平清武が入城、館林城に天守閣を完成させた。
 このように館林城の主はいろいろ変わったが、現在は三ノ丸後に建つ図書館に館林城関係の資料が収集されていて、その歴史を見ることが出来る。

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館林図書館


 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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