【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2012.4.24

古い家並みが城下町の面影残す

京極高知が初代藩主となる

長宗我部友親

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宮津港


  宮津港に面して建てられ、西に流れる宮津川が天然の堀となっている。宮津城は京都府宮津市鶴賀にあった近世の城郭で、今は城址が残るのみである。
 港を持つ宮津には国府があり、丹後の中心地であった。一色氏が長く治めていて、その枝城や砦が丹後一体にあったが、織田信長の命により、細川藤孝(幽斎)と明智光秀が丹後国を攻め、一色氏は滅亡する。
 藤孝軍に追われた一色氏の最後の城主、一色義清(いっしき・よしきよ)は、細川軍の本陣に切込みを掛け、宮津の海岸で壮絶な最期を遂げている。
 信長に丹後を与えられた細川藤孝は宮津城を改修して、ここを丹後経営の本拠地とした。だが、天正10年(1582年)の本能寺の変に際して、藤孝は明智光秀とは一線を画するために、出家して、後は忠興が継ぐ。
 慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、細川家は徳川家康につき、豊前国を家康から与えられる。丹後には、京極高知が入封した。
 高知は丹後を3分割して、本藩の宮津を中心に、田辺と峰山を支藩とし、初代の宮津藩主には嫡男の高広がつく。しかし、京極家は二代藩主の高国の時代に、 旗本となる。その後宮津藩は永井、阿部家などとめまぐるしく藩主が変わり、宝暦8年(1758年)にようやく松平資昌が入って、明治維新まで続く。

  宮津城は内堀の中に本丸、二ノ丸がある。そして内堀の外に三ノ丸と武家屋敷を配し、城を取り巻いていた。しかし現在は、それらの城郭はほとんどが破壊さ れ、石垣などごく一部が残るのみである。宮津小学校に太鼓門が移築されている。「一色義清自刃」の碑が一色稲荷に建てられている。
 また、宮津の市内には、まだ古い家並みが残り、城下町の面影を残している。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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