【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2011.3.13

小船の上で切腹した清水宗治

信長の死を隠し通した秀吉

城跡の沼を復元、蓮が花開く

長宗我部友親

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  岡山市の高松に築かれた城で、織田信長から中国攻めの命を受けた秀吉が天正十年(1582年)に3万の軍勢を率いて水攻めをしたことで知られる。
 敗北を悟った当時の高松城主の清水宗治(しみず・むねはる)は城兵5、000人を救うことを条件に、小船で湖上に漕ぎ出して、双方の軍勢が見つめる中、切腹して果てた。47歳であった。
 この宗治との折衝を行ったのは安国寺恵剄瓊(あんこくじ・えけい)で、実はこの時 既に織田信長は本能寺の変により明智光秀に討たれていた。

「浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を高松の 苔に残して」
これがそのときの清水宗治の辞世の歌である。

 秀吉は信長の死をひた隠しにして、宗治との折衝を急ぎ、宗治の切腹を見届けると、ただちに明智光秀を討つために引き返した。これが「秀吉の中国大返し」である。
 毛利、あるいは宗治が、本能寺の変の情報を速く得ていたなら、宗治の死はなく、逆に毛利側が優勢となり、秀吉自身が危なかったわけで、戦国の世で、いかに情報が大切であったかが分かる一コマである。

  高松城は元々毛利氏に所属していた備中松山城の三村氏が、備前の宇喜田直家に備えて、築城した城の一つである。秀吉が水攻めを選んだように、高松城は平城 で、深田が多く、近くを足守川が流れていて、この川の堤防を切れば城が水に浮かぶ。雨季でもあった。清水勢を攻め倦んだ秀吉は、水攻めをとった。

 昭和57年(1982年)に高松城の近くにあった沼が復元された。すると土中に眠っていたのか多くの蓮が花開いた。この蓮池に囲まれて本丸跡がある。宗治やともに自刃した家臣らの墓が残っている。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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