【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2011.12.20

重税と凶作が重なり
農民の抵抗が

島原城はキリシタン史料館に

長宗我部友親

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島原城


 島原半島一帯は、鎌倉時代から有馬氏が支配していたが、有馬晴信の時に、豊臣秀吉から島原半島一帯と長崎の浦上を領地として認められた。
 その後、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、晴信は徳川家康について、領地を安堵される。
 ところが、慶長14年(1609年)12月にポルトガル船を有馬晴信が長崎港外で撃沈してしまうという事件が起こった。この事件がからんだ出来事によ り、晴信は甲斐国に配流されることとなる。また晴信ら事件関与者がキリシタンだったことなどから、幕府はキリシタンの禁制にも踏み切る。晴信の嫡男の直純 も一時は晴信の領地を継いだものの、結局は日向国に転封となり、有馬氏の島原支配は終焉した。
 しばらくの間、島原は天領となったが、元和2年(1616年)に大和国から松倉重政(まつくら・しげまさ)が入り、島原城を築城した。松倉氏は藩の体制強化に乗り出し、城下町の造営にも本格的に取り組んだ。
 しかし、築城資金や幕府からの軍役等によって、松倉氏の時代藩の財政はひっ迫し、年貢の増強策等を実施する。折りからの凶作も絡んで「天草の乱」が起こる。この責任を問われて、当時の城主勝家は除封となる。

 その後、西国大名の目付役も兼ねて、譜代大名の高力忠房(こうりき・ただふさ)が遠江国浜松から島原に入る。忠房は島原の乱で荒廃した土地の復興に努めたが、その嫡子の隆長(たかなが)は遊興にふけり、農民の反発をかい、領地を没収され、仙台藩のお預けとなる。

 高力氏改易後は、丹波国福知山から松平忠房(まつだいら・ただふさ)が入封する。しかし、松平氏の時代も天災や疫病などが起こる。このように島原藩の治世は厳しい時代が続いた。
 しかし、南国島原の海は美しく、島原城の天守閣も見事だ。そして、その天守閣は現在は島原の資料館となっていて、キリシタン関係の資料が豊富に収められている。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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