【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.9.20

森蘭丸の弟、忠政が築城

津山盆地の中央部で自然を活かす

長宗我部友親

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津山城備中櫓


 美作は、戦国時代の終わりのころは、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の領地であったが、関ヶ原の戦いで、秀家が西軍についたため、美作は徳川家康に寝返ったとされる小早川秀秋の所領となった。
 だが、秀秋が早くして病死したため、津山には本能寺の変の際に信長とともに戦った森蘭丸の弟である森忠政(もり・ただまさ)が入り、津山藩を立藩した。忠政は美濃国金山城主であった森可成(もり・よしなり)の六男で、信濃国川中島の領主であった。
 忠政は、入封後直ちに鶴山の地に、築城を始め、元和2年(1616年)に完成、鶴山を津山と改称した。また、入封とともに内政にも着手し、総検地や藩の組織固めを進め、城下町の整備も行った。
 忠政は寛永11年(1634年)に死去したが、その後は娘婿で甥の関成次(せき・なりつぐ)の子である長継(ながつぐ)が継いだ。長継は忠政の遺志を受けついで、津山の城下町の完成に力を注ぎ、新田開発など領地の拡大にも務めた。
 だが、その後津山藩にはお家騒動が起こり、幕府の介入するところとなり、改易された。森家の後には元禄11年(1698年)、徳川家康の二男である結城秀康(ゆうき・ひでやす)の流れの松平宣富(まつだいら・のぶとみ)が入った。

 津山城は、津山盆地の中央部に位置していて、城の東部には吉井川の支流があるなど、自然の地形を生かして築かれている。天守は4重五階の独立型層塔形式で、台の石垣も含めると高さは26メートルあった。
 現在、城址は鶴山公園(かくざんこうえん)として桜祭りが催され、日本桜名所100選にも入っている。

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鶴山公園


 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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