【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2011.3.22

木曽川に面して聳える国宝の天守閣

春には桜が咲き、明治村も賑わう

長宗我部友親

写真

犬山城


 木曽川を見下ろす格好の天守閣の周りには桜が植えられていて、花の咲く季節は花見客で賑わう。
 犬山城は、管領であった斯波義郷が文明元年(1469年)に、家臣の織田広近に命じて、美濃の斎藤氏に対する構えとして、創建した木ノ下城が、その基となる。
 その後、文禄4年(1595年)に石川貞清が犬山城に入ったが、その子の光吉のときに起こった関ヶ原の戦いに、石田三成側についたため、石川氏は除封となった。
そして、その石川氏の後には、清洲城主であった松平忠吉の付家老(つけがろう)の小笠原吉次が2万7千石で入った。
 しかし、松平忠吉が没すると、吉次は下総の佐倉に移され、尾張国名古屋藩主徳川義直の付家老の平岩親吉が犬山城に入る。
このように犬山城は、付家老が守ってゆく城として江戸時代も長くその形が続いた。
 犬山藩が正式に立藩されたのは慶応4年(1868年)、大政が奉還され、新政府が誕生した後であったが、晴れて犬山藩は犬山城に藩庁を開き成瀬正肥(なるせ・まさみつ)を藩主とした。
 だが、成瀬正肥は翌明治2年(1869年)には藩籍奉還を願い出て、犬山藩主の地位を降りた。

 犬山城は、外観三層、天守閣は望楼様式である。高さは24メートル。天守閣は国宝に指定されている。
 荻生徂徠が木曽川沿いの丘の上に聳え建つ犬山城の姿を見て、この白を、「白帝城」と舞い名詞たとい割れる。これは長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩にちなんでのもの。
 犬山城のある丘陵の中腹には針綱神社があり、祭礼の日には山車が出て、からくりも見られる。
 また、犬山市内の入鹿池に面した丘陵には、明治村が造られて、観光客を呼んでいる。

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木曽川


 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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