【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2011.1.24

坂崎出羽守が津和野城主となる

鯉が遊ぶ道路脇の小川

長宗我部友親

写真

津和野城跡


 津和野の町の真ん中には津和野川が流れ、城址から見下ろす町全体にのどかな雰囲気が漂っている。城下町には家並みに沿って、小川が流れ、町の人々はその小川で元気に泳ぐ鯉に食事の残りを与えたりしている。
 
 津和野藩を立藩したのは、備前国岡山の太守宇喜田秀家の一族であった坂崎出羽守直盛(さかざきでわのかみなおもり)である。坂崎出羽守は、関ヶ原の戦いでの功績で、毛利輝元の領地であった津和野二万四千石を与えられた。
そして、その後に起こった大坂夏の陣の際には、燃え落ちようとしている大阪城から徳川家康の孫で、豊臣秀頼夫人であった千姫を命がけで助け出す。
だが、その後出羽守には不幸が襲う。家康は千姫を救出したいばかりに、直盛に、無事救い出したら、千姫を嫁に与える、との約束をしたといわれる。
ところが、千姫は直盛を嫌って、伊勢国の桑名藩主であった本多忠政の子の忠刻(ただとき)に嫁ぐことになる。そこで、出羽守はこのことを恨み、千姫奪取を 企てる。だが、この騒動は柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の説得でおさまった。しかし、出羽守は自刃して果て、津和野藩は廃絶となる。
坂崎氏の後には、因幡国鹿野から亀井政矩が四万三千石で、入る。

その後、津和野藩には天明三年(1783年)に、藩校養老館が創設され、儒学をはじめ医学、兵学も教えた。文化の伝統が保たれ、哲学者の西周(にしあまね)や文学者の森鴎外らを津和野の町は輩出した。

写真

津和野大橋


 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


トップページ会社紹介著作権についてお問い合せ
Copyright (c) Flying Garden Rights Reserved.