【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.10.25

守りに堅く、4層6階の天守閣

高知平野の中心に位置する名城

長宗我部友親

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高知城天守閣


 土佐の高知はもともと、信濃から岡豊に移り、勢力を広げてきた長宗我部氏が、長く治めてきた土地である。
 その長宗我部氏が、天下分け目の関ヶ原の戦いで、石田方に与して改易されたため、遠江の掛川城主であった山内一豊が、徳川家康から関が原の戦功として、大幅に加増されて、土佐一国を与えられた。

 そのために、一豊は、この家康の改易措置を不満とする長宗我部の家臣が多く残る土佐の地にやってきたのである。
 そこで一豊は、長宗我部の居城であった浦戸を捨てて、高知平野のほぼ中央にある、大高坂に、高知城を急きょ造り、新しい為政者の威信を示した。
 高知城は鏡川と江の口川に挟まれた中州のような位置にある。したがって、水害に会いやすく、工事は難航したが、関ヶ原の戦から3年後の1603年に完成した。
 長宗我部の旧家臣らの一揆が続いていたこともあり、一豊は築城工事の視察には複数の影武者を付けるなど苦労した。城の守りについても、鉄砲の弾を跳ね返す鉄の門を造るなど多くの工夫を施している。
 だが、長宗我部の遺臣たちは、徳川政権が続く中、農地を捨てて次第に逃げ出し始めた。この対策として山内家二代藩主の忠義は「定法度条々」を 制定したりしたが、うまくゆかず藩の財政は逼迫した。このため忠義は野中兼山を登用して新田開発を積極的に行い、長宗我部の遺臣も多く登用した。

  また、高知は戦に臨む一豊に、へそくりを提供したという一豊の妻の千代の逸話が残っているほか「坊さん簪買うを見た」と歌う「よさこい節」などで知られる 城下町である。JRの高知駅から南に続く駅前の大通りには南国特有の木が植えられているなど、いかにも黒潮にあらわれる土地という感じが漂う。

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高知城下町の「追手筋」で開かれる日曜市


 
イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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