【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.9.13

臼杵石仏や武家屋敷が残る
城下町

稲葉氏一族の夢のあと

長宗我部友親

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 臼杵市は、臼杵湾を望む立石山で毎年九月の初めに、松明を燃やして「王」の字を夜空に浮かび上がらせる、行事が続いている。石仏が多くあり、武家屋敷も残っていてのどかな城下町を形成している。
 
臼杵城は、永禄5年(1562年)に、大友宗麟が隠棲した丹生島城が最初である。
豊臣秀吉の時代に入って、宗麟の子の義統(よしむね)が除国され、その後に福島直高が入るが、その数年後には太田一吉が入国する。
 だが、慶長5年(1600年)の関が原の戦いで、太田氏は西軍に付いたため、除封され、関ヶ原で戦功のあった、稲葉貞通(いなば・さだみち)が、美濃国八幡から、五万石で入城する。貞通は、戦国武将の稲葉一鉄(良通)の子である。
 稲葉貞通は、臼杵城に入り、石垣を修築し、大手門なども改装した。稲葉氏はこの後も、徳川幕府の下で、九州南部の要の働きをしている。大坂の陣には貞通 の後を継いだ、典通(のりみち)が出陣し、その後寛永3年(1626年)に島原で起こった天草四郎の乱にも、典通の継嗣である一通(かずみち)が出陣し、 功をあげている。
 
臼杵は九州南部である。そして海に面していることなどから。商業が発展して、町づくりが行われた。唐人町、浜町、本町など「町八町」と呼ばれる商人町が発展して、城下の経済の中心となった。
 また、寛文3年(1663年)に景通(かげみち)が、継ぐと新田開発をおこなって、1万石の新田を造った。

 稲葉一族が徳川時代、代々に渡って居城とした臼杵城は、現在は臼杵公園となっている。石垣や畳櫓(たたみやぐら)の遺跡があり、その栄華をしのぶことができる。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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