【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.8.30

五層六階の大天守と
三層の小天守


北アルプスを背景に聳え立つ


長宗我部友親

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松本城


 北アルプス連峰を背景に、無骨な風格の松本城がそそり立つ。 城は松本の市街地のほぼ中央に位置していて、黒漆塗りの下見板で覆われている。その濠に映る姿は、信州のひとつの象徴ともなり、名城といえる。

 松本は、もともと信濃の守護小笠原氏の所領で、府中・深志と呼ばれていたが、小笠原長時の代に武田信玄との戦に敗れて、一時ではあるが武田の城代によって支配された。
 だが、織田信長によって武田氏が滅ぼされた後は、徳川家康の後ろ盾で、長時の子の貞慶(さだよし)が、深志に戻る。そして、貞慶が天正十年(1582年)に、深志の呼称を変えて、松本城と命名する。
 松本城は、五層六階の大天守閣と渡り櫓でつながった三層の乾小天守で出来ている。石垣はそりが少なく直線的である。天守閣は国宝に指定されている。
 天正十八年(1590年)には、小笠原氏は徳川家康の関東入部による国替えで、下総の古川に移され、松本には石川数正が、入城する。
 だが、その後再び石川氏に代わって小笠原秀政が信濃国の飯田から松本に復帰、入封する。しかし、その小笠原氏も大坂の陣で絶える。
 その後は上野国高崎から戸田康長が松本城に入る。康長の正室は家康の妹の松姫だったため、戸田家は松平姓と葵の紋を許された。
 松本藩は、その後三代家光の側近から取り立てられた堀田正盛
 そして水野忠清らが治めることになるなど、城主は次々と代わっている。
 
 松本市内には、松本藩最後の藩主松平(戸田)光則(まつだいら・みつさだ)が菩提寺の全久院を廃して建てた旧開智学校校舎が残っていて、国の重要文化財に指定されている。また、旧制松本高等学校の校舎も現存している。
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旧開智学校校舎


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旧制松本高等学校


イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 
 
 


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