【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.7.26

関ケ原の戦で三成が大垣城に入る
戸田氏鉄が大垣藩の基礎を固める

長宗我部友親

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大垣城


 西に向けて進軍した徳川家康は大垣近くの赤坂に陣を張った。相手の石田三成は大垣城に入っている。この両軍が、この後どう動くかが、天下分け目ともいわれたこの一戦の成り行きを決めることにもなりかねない。

 家康は、攻めにくい大垣城を三成が出て、決戦を挑んでくるのを待っていたとみられる。そして、慶長5年(1600年)9月15日の午前2時。三成は動 き、決戦場となる関ケ原へと向かう。家康も、それに応じ、合戦は始まった。 この関ケ原の合戦で、石田三成が大垣城に陣取ったように、美濃国(みののくに)の大垣は、西と東を結ぶ重要な拠点となる位置にある。
 関ケ原の戦の後、大垣城は東軍の松平康重(まつだいら・やすしげ)城番 (しろばん) として入っていたが、慶長6年(1601年)に、上総国鳴渡(かずさのくになると) から、石川康通(いしかわ・やすみち) が移って、大垣藩を立てた。

 その後も、大垣藩主は何回か入れ替わったが、寛永12年(1635年)に摂津国尼崎(せっつのくにあまがさき) から入った戸田氏鉄(とだ・うじかね)になって、戸田氏が明治の廃藩までを、11代に渡って治めることになる。

 戸田氏鉄が、大垣に入って、2年後に天草四郎による島原の乱が起こる。そして、氏鉄はその征討のために、老中の松平信綱(まつだいら・のぶつな) とともに島原に向かい、総攻撃に参加、戦功をあげる。この働きもあって、大垣藩の家臣団の統制も取れるようになり、藩内の政治も順調に進んだ。

 検地や新田開発も行われ、農業生産力の確保もできて、氏鉄の治世は17年続いた。その間、氏鉄は林羅山(はやし・らざん)らに学んで儒学(じゅがく)を修め、「 戸田左門聞書 」 などを著している。氏鉄の時代から、3代目の藩主となった氏西(うじあき)の頃から、藩財政は切迫し始め、延宝8年(1680年)には、家中の改革のため、家臣の削減などの大改革を実施した。これが 「 延宝の大暇 」 である。
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関ヶ原古戦場跡
©(社)岐阜県観光連盟


イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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