【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.5.17

徳川の大軍を2度にわたって跳ね返す
城の南には千曲川の流れ

長宗我部友親

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上田城


 上田城は、武田晴信に仕えた真田正幸が、天正11年(1583年)に築城した。地理的には上田盆地の北部にあって、城の南側には千曲川がある。北派太郎 山で、古くは土豪の小泉氏の城があった場所といわれる。 真田正幸は、その子信之とともに徳川の大軍を、この城で撃退したことで知られる。

 信濃の国の地域領主として生きてきた真田氏は武田氏に仕えていた。真田幸隆の三男として生まれた昌幸は、天文16年(1547年)に武田晴信の下に人質として出されるが、晴信はその才能を認めて、昌幸を重用する。
 だが、武田家の勢力は次第に衰えてゆき、新興勢力である織田信長に攻められて滅ぶ。そして、昌幸は織田信長に仕えることになるが、その信長も本能寺で明智光秀の、謀反に遭って、自刃する。

上杉景勝に対抗して築く

 信長亡き後の信濃は、徳川家康、上杉景勝、北条氏直の勢力が争うことに成り、昌幸は結局家康について、真田領を安堵される。そこで、昌幸は家康と敵対していた秀吉と通じている上杉景勝に対抗するため、堅固な上田城を築いた。
 ところが、信頼していた家康が、北条氏との和議の代償として、昌幸の真田領の沼田を北条氏に与えようとしたので、これに怒った昌幸は家康と対立し、秀吉に隋身する。
 そして、家康がこれに激怒して、天正13年(1585年)8月、上田城を攻めるが、このとき昌幸はこれに耐えた。
 慶長5年(1600年)の関が原の戦さでは、昌幸は西軍についた。このため、今度は関ヶ原に向かって中山道を進んだ徳川秀忠の軍に攻められる。しかし、これにも耐える。   
 この関ヶ原の戦では、昌幸の嫡男、信幸が父とは逆の家康側につき活躍する。このことで、真田家は徳川時代にも生き残る。
 真田氏の城下町である上田は、現在も比較的よくその姿を残していおり、白壁造りの家や、格子戸のある家並などが残っている。
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上田駅前に建つ真田幸村像


イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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