【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.5.10

蜂須賀家政が築いた徳島城
鳴門に赤穂に次ぐ大塩田を開発

長宗我部友親

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 徳島城は四国三郎といわれる吉野川の河口付近の中洲に建てられている。平城で、現在はJR徳島駅の北側に位置している。
 初代藩主は蜂須賀家政で、天正14年(1584年)に、徳島城を築いて入城した。創建当時の徳島城は三階建ての天守閣を持ち、吉野川の支流である助任 川、福島川、新町川などを自然の外堀として利用していた。徳島城址は現在は「徳島城跡公園」となっていて、四季の花々が咲いている。
 
 蜂須賀家政は入城と同時に城下町の構築にも着手し、藍の生産や藍染めなどの産業政策も行っていった。
 また、家政は藩内のそれぞれの要所に支城を築き、そこに家臣らを配置して城番とさせ、治めさせていく政策をとった。ところが、この城番となった家臣が、 農村を知行地の形で治めるために、それぞれの地で力を持ち始め、いわゆる領主化してくるという問題が起こってきた。 このため、蜂須賀家はこの城番制度の 改革を進めようとしたが、この問題が藩を揺るがすことにもなった。

 また、蜂須賀家は徳島藩の産業政策として、塩田に目をつけて、現在の鳴門市にあたる撫養(むや)の海岸に、赤穂に次ぐ大塩田を開発した。塩方代官制度を設けて、藩は塩から租税をとり、藩の財政の助けとした。
 教育面では10代藩主の蜂須賀重喜が藩校の設立を計画したが、実現せず、11代藩主の治昭の時代に、寺町に学問所が開設された。本草学者である小原春造によって医師学問所もできた。

 蜂須賀氏は、もともと尾張の海東郡の国人で、家正の父の正勝は美濃の斎藤道三に仕えていたが、その後秀吉に仕官している。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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