【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.5.3

本州最北端に位置する津軽城
養蚕業を進め北の商都として育つ

長宗我部友親

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  弘前藩の初代藩主となった津軽為信は、大浦氏と称して、南部氏の配下にあって、代々青森県岩木町あたりで勢力を張っていた豪族である。
 この大浦一族は次第に勢力を強めて、戦国時代の天正16年(1588年)ころには、南部氏から離れ、津軽の支配者として独立している。
 南部氏から独立した為信は秀吉の小田原城攻めにいち早く参戦して、秀吉から津軽の地を正式にもらう。また、近衛家を頼って「杏葉牡丹」の家紋を許されたという。このあたりから為信は津軽氏を名乗るようになった、とされる。
 津軽為信は文録3年(1594年)に居城も大浦から堀越に移す。そして、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こり、為信は東軍につき、この功で 為信は津軽の地で大名となる。そこで為信は津軽平野のほぼ中央である高岡に築城を決める。天守閣を持つ新城は慶長16年(1611年)に完成、城下町もこ のころに整備される。
第4代城主の津軽信政のころに、新田の開発や、山林整備などの産業を育成した。養蚕、製紙業にも力を入れ、城下町は商都としても栄えた。

 弘前藩は本州の最北端に位置していたことから、盛岡藩とともに、北海道の蝦夷蜂起に対する備えとしての任務を持っていた。
 実際、寛文9年(1669年)に起こったアイヌ民族の蜂起は、北海道の松前藩を直接襲うような勢いを見せた。このため、この事件は松前藩とアイヌ民族という問題を超えて、幕藩体制にも放置できない様相を呈してきていた。
 幕府は、弘前、盛岡の両藩に出兵の準備を命じて、松前氏の一族の松前泰広を蝦夷地に向わせて指揮を取らせることになった。
 そして、当時の弘前藩主の信政は、この松前氏の動きに合わせて、重臣の杉山吉成に兵を率いさせ、松前氏の指揮下に置いた。これにより蜂起は鎮圧されて、幕府も安堵した。

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イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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