【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.4.26

津城では政務
伊賀上野城は軍事上の拠点

長宗我部友親

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津城

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藤堂高虎


 伊賀上野は陸路で京都、大阪、堺に近く、津は伊勢から発して海に出るとやはり京都、大阪、堺につながる。
 つまり、伊賀上野と堺は、関東に座って西に睨みをきかす徳川家康にとっては、きわめて重要なポジションにあった。
 だから、誰にこの要所を、任せるかを家康は考えた。そして、関ヶ原の戦いで大谷吉継ら西軍と死闘を演じて、勝利した藤堂高虎に白羽の矢を立てた。
 
 藤堂高虎は慶長13年(1608年)に、津藩主として入城し、伊賀上野も領地として受ける。高虎が、城主となる前は、津城は筒井定次、伊賀上野城は富田信高が治めていた。筒井氏は家臣統制の乱れをつかれて改易となり、富田氏は加増の上で伊予宇和島に移される。

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伊賀上野城


 藤堂高虎は津城に入り、大阪の陣が落ち着いたのを見て、慶長16年(1616年)に、津と伊賀上野の両城の改築に着手する。
 この際、高虎はこれら二つの城の役割を鮮明にする。津城は政務を実行する拠点と位置づけた。そして、伊賀上野城は西を睨むための軍事上の拠点として、考えた。
 このため、津城の城下町が着々と整備され、軍事が主任務の伊賀上野城の石垣は、高さが30メートルを超え、要害の感がある。
 津城の城下町は、伊勢の参宮街道を引き入れて町の区を画定めるなど、賑わいを作る努力がなされている。

 藤堂高虎については、その主君を何度も変えているために世の批判があるが、その戦闘能力などの実力についての評価は高い。また、城作りの名手でもあって、城を多く手がけている。

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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