【長宗我部の庭】日本の城めぐり
2010.2.15

日本海に面した毛利氏の萩城
松下村塾が伊藤博文ら維新の人物を生む

長宗我部友親

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 萩の城下は土塀と、そこから見え隠れするみかんが夕日に映えて美しい。静かな城下町である。

 徳川時代に萩の城主となったのは毛利氏だ。毛利輝元が徳川家康の許しを得て築城を決めたのは指月山であり、『指月城』ともいう。ここは阿武川下流のデルタ地帯にあたる。

 このため築城作業はまず埋め立てから始められ、ようやく慶長13年(1608年)に完成した。
 
 天守閣は5層で、城は日本海に面しており、山上の詰め丸へは急斜面を登ってゆく格好になるなど、守りを強く意識した城構えになっている。

 

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城下町の風景

 毛利氏は、毛利元就の時代に大内、陶、それに出雲の尼子一族をも打ち破り、中国地方を中心に確固たる地位を築いた。元就は、さらに九州、四国にも派兵して、その勢力の拡大に努めていたが、元亀2年(1571年)に死去する。

 関が原の戦いのころは、毛利輝元の代で、輝元は不運にも大坂方につき、しかもその総大将に擁立されていた。自らは戦わずして帰城したが、その責めを負って、徳川家康に周防、長門のみに減封された。

 この減封の厳しい措置が、「徳川憎し」の心を長州藩に植え付けた。そして、徳川政権打倒の心を江戸時代に持続させ、明治維新を実行する力となったとも言える。

 萩で知られるのは、吉田松陰が徳川末期に開いた松下村塾だ。当初は8畳一間で始められ、門弟が増えて10畳半の間を増築した。松陰が教えた期間は短かったが、その間に高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋らの人物を生んでいる。

 松陰神社の中に、毛利重成が作った茶室の花月楼とともに、松下村塾は今も残されている。

イラスト 長宗我部 友親  (ちょうそがべ・ともちか)
親房系長宗我部家の十七代。通信社の記者を経て、現在株式会社企画の庭の代表取締役。著書に『なごやの忘れもん』、『街かど経済入門』などがある。
 

 
 


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