【知の庭】
 
2010.4.26
浅井三姉妹の次女


西谷 史

 『初』は浅井三姉妹の次女である。秀吉に愛され、大坂城の支配者として徳川家康と争った長女の『淀』。高雅な美貌と気の強さで夫を尻に敷き、天皇の祖母にまでなった三女の『江』と比べ、次女の『初』は歴史上でそれほど大きな役割を果たしたわけではない。
 そのため、歴史小説では姉や妹に比べて容姿も地味で、普通の女性として描かれることが多い。しかしそれは彼女の夫である京極高次が、戦国大名としては珍 しく天下獲りには関心のない人だったせいで、実際に彼女の行動を見ていると、姉や妹と同じように気の強い自立した人だったことがわかる。

■初と京極氏

 『初』は元亀元年(一五七〇)、戦国一の美女として名高いお市の方と、浅井長政の間に生まれた。長政が滅ぼされた後は、姉や妹とともに織田信長の庇護下 にあったが、本能寺の変で信長が亡くなり母親が柴田勝家と再婚したため、勝家の養女となった。しかしその勝家も天正十一年(一五八三)、豊臣秀吉に滅ぼさ れてしまった。
 それから四年後の天正十五年(一五八七)京極高次に嫁ぐまで、初は秀吉の側室の京極龍子に保護されていたものと思われる。というのも、この龍子と浅井三姉妹の間には浅からぬ因縁があるのだ。
 琵琶湖の豊かな水源に恵まれた近江は、鎌倉時代から京極氏の先祖が領有する土地だった。それから室町時代を通じて三百五十年あまりも、京極氏は北近江に 君臨した。ところが戦国時代に入って、家臣の浅井氏に実権を奪われてしまう。そして浅井長政の父親である久政は、京極氏を懐柔するために娘を京極高吉に嫁 にやった。そして生まれたのが京極高次と龍子の兄妹なのである。つまり浅井三姉妹と龍子は従姉妹だったことになる。
 龍子は美女の誉れ高く、一旦は若狭の武田元明に嫁いだものの、元明が本能寺の変で明智光秀に加担すると、秀吉はただちに武田氏を滅ぼして龍子を自分のも のにしてしまった。けれども、秀吉はこの美女にメロメロになってしまって、彼女のいうことならなんでも聞いたと言われる。
 だから、浅井三姉妹の中で長女の淀は秀吉の側室になったものの、まだ歳若い初は龍子に庇護されたと考えるのが妥当だろう。そして龍子は秀吉に対して、この愛らしい従姉妹を自分の兄に嫁がせるよう願い、それが聞き届けられて初は京極高次のもとに輿入れした。

■京極高次という人

 さてその京極高次は、永禄六年(一五六三)、名門京極氏の跡取りに生まれたものの領地を浅井氏に奪われ、惨めな前半生を送った。そして本能寺の変が起こったとき、明智光秀の陣営に加わったものの、あっさりと秀吉に敗れて命からがら逃亡した。
 本来なら、見つかれば直ちに死罪になるところである。だが、彼には妹の龍子という強い味方がいた。秀吉は龍子にはあまかったので、彼女が「兄の命をお助けください」と願うとあっさりと高次を許し、近江に領地を与えてやったのだった。
 高次はこの恩義に応え、与えられた任務をそつなくこなし、着々と領地を増やしていった。そんな高次のことを人々は『蛍大名』と呼んで蔑んだ。つまり、秀 吉の寵愛を受ける妹『龍子』と従姉妹『淀』の尻の光のおかげで出世街道を進む男というわけだ。だが、なにを言われても、ただ黙って耐えていた高次が、慶長 五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦で乾坤一擲の大博打を打った。
 このとき、高次は西軍の一員として越前に向かって進軍していたが、突如として兵を返して大津城に篭城すると、徳川家康に味方すると宣言してしまったのだ。
 いままで高次のことを蔑んでいた西軍の大名たちは、パニックに陥った。高次の護る大津は、京・大坂と関東を結ぶ要の土地だ。ここを押さえられてしまったら、すでに東進している石田三成の軍勢と、伏見・大坂方面の軍勢が連携できなくなる。
 そこで、毛利軍を中核とする二万近い兵が大津攻めに向かった。しかし、信じられないことに大津城はなかなか落ちなかった。三千あまりの兵の先頭にたって、京極高次は獅子奮迅の活躍を見せ十日あまりも持ちこたえたのだ。
 関が原の合戦の後、この戦功によって高次は若狭の国と近江の一部を領土として与えられた。しかし、その後は目立った活躍をすることもなく、慶長十四年(一六〇九)四十七歳で亡くなった。
 どちらかといえば大人しく、先見の明があるとは言い難い高次が、なぜこのときだけ大胆にして賢明な決断を下し得たのか。多くの歴史家が、この決断の陰に初がいたと推測するのは無理のないところである。では、その初はどんな女性なのだろうか。

■初の活躍

  初が、はじめて歴史の表舞台に登場するのは、高次に嫁いで十五年あまりが過ぎた慶長八年(一六〇三)のことである。このとき徳川家康の孫娘である千姫が豊 臣秀頼に嫁ぐために上京してきた。そして初の妹である母親の江は、妊娠中であるにもかかわらず、江戸から京都までつきそってきた。そして、とうとう伏見城 で四女を出産する。
 初はこのとき妹に付き添い、励まし、生まれた娘に自分と同じ『初』という名前をつけさせて、その娘を自分の養女として引き取るのである。これは、高次の大津篭城戦にも匹敵するほどの見事な一手であった。
 これまで三姉妹の次女である初は、姉の淀の側で豊臣方の人間として生きてきた。しかし、関が原の合戦の勝利で徳川家の優位がはっきりするや、徳川秀忠の正室である妹と誼を通じ、その娘をもらい受けてしまう。これを見事な交遊術といわずして、なんといおうか。
 しかし、これで初が徳川方の人間になってしまったら、ただの世渡り上手にすぎないのだが、初はそんな女ではなかった。夫を亡くした後出家して常高院と号 し、家康を敵に回して孤軍奮闘する姉の下に駆けつけ、何度も姉を励ますのである。そういう女性であったからこそ、家康も彼女が大坂方の使者として訪ねてく ると、いつもねんごろにもてなしたのだろう。
 彼女がいちばん大きな役割を果たしたのは、豊臣氏が滅ぶことになる慶長二十年(一六一五)大坂夏の陣の直前であった。
 家康に追いつめられて進退窮まった淀は、妹の初を使者として家康に詫びを入れるが、もちろん家康は聞かず、今度は初を大坂方への使者として、許すための条件などを申し送るのである。それを受けて、また初は大坂方の使者となって家康と交渉するのであった。
 何度もそんなことを繰り返しているうちに、徳川方の総攻撃が始まってしまった。このとき大坂城にいた初は大坂方の侍女たちを引き連れて脱出。そんな初を 心配して、家康は迎えの者をつかわし、初に付き従っていた者たちはみな咎められることもなかったというから、家康がいかに初を大事にしていたかがわかる。
 余談ながら、家康は秀忠の正室となった江とは馬が合わなかったようだ。もしかすると江の姉の初が息子の嫁であってくれれば、などと考えていたのかもしれない。
 この後、初は京極家の江戸屋敷に住み、妹・江の良き相談相手になったという。そして寛永十年(一六三三)、六十三年の生涯を閉じた。
 初は、姉の淀や妹の江のように、権力の頂点に上り詰めることはなかった。しかし、その賢明さと勇気とやさしさをもって、豊臣、徳川の両勢力から慕われ続けた。おそらく、浅井三姉妹の中で、もっとも幸せな人生を送ったのは彼女ではなかっただろうか。
                                   

西谷 史(にしたに・あや)
 三重県生まれ。東芝在職中にビジネス誌で連載をはじめる。1986年『女神転生』(徳間書店)で小説家に。同作品はゲーム化されミリオンセラーシリーズになる。
著書に『神々の血脈』『記憶』(角川書店)、『三番目のワッ』(毎日新聞社)、『東京SHADOW』(メディアワークス)、『タイムダイブ1986』 (リーフ)、『黄金の聖獣』(光文社)、『水神の巫女』(学研)、『黄金の剣は夢を見る』(小学館)、『ど〜してねこ年はないのか』(主婦と生活社)な ど。
 
 
 


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