【知の庭】
 
2010.3.15
戦国の勝者

江(前編)
西谷 史

 戦国大名の妻にとって、夫が天下を取ることと、その夫に愛されることが勝利であるとするなら、『江』は戦国の妃の頂点に立つ女性といっていいだろう。
 彼女が輿入れしたころ、夫の徳川秀忠は真面目で実直が取柄の十七歳の若者にすぎなかった。けれども父親の家康が天下を取り、その後継者に指名されると地道な努力を積み重ね、立派な天下人になった。
 しかもこの秀忠は大の愛妻家で、徳川三百年の歴史を通じて、ただ一人側室を持たず、妻一人を愛し抜いた将軍として知られている。そして『江』の長男家光は三代将軍となり、五女の和子は天皇の妃にまで上りつめた。
 戦国の妃として、これ以上ないほどの栄華に包まれながら、『江』にはいつも不幸の陰がついてまわった。

■幼少期の江

 戦国一の美女として名高いお市の方と、近江の戦国大名浅井長政の間には、茶々、初、江という三人の娘が生まれた。
 江はその末娘である。ただし、小谷城下で育った姉二人がたくましい父の面影を記憶の片隅に残しているのに比べ、城が陥落し、父の浅井長政が自害した天正元年(一五七三)に生れた江は、父に関する記憶はほとんどないはずだ。
 しかし母に抱かれて城を脱出し、生死の境をさまよった体験は、彼女の潜在意識に深い傷を残したに違いない。その傷をえぐるように、前半生の彼女には次々に不幸が襲いかかった。
 天正十年(一五八二)本能寺の変で信長が亡くなると、母親の市は柴田勝家と結婚した。けれどもそれから一年もたたない天正十一年(一五八三)、勝家は豊臣秀吉に滅ぼされ、母親の市は自害し、江は十年前と同じように命からがら城を脱出して、二人の姉とともに豊臣秀吉に保護されることになった。

■豊臣秀吉に人生を弄ばれる

 秀吉は、市の遺した三人の姉妹にはそれなりの愛情を注いだ。長女の茶々(淀)は自分の側室としたものの、次女の初は名族京極高次の正室とし、三女の江は天正十四年(一五八六)尾張の豪族佐治一成と結婚させた。
 佐治一成は大大名ではなかったが江とは血のつながりがあり、彼女にとっては良縁といえた。だが、一成が徳川家康に好意を示したことが、秀吉の勘気にふれた。
 天正十七年(一五八九)秀吉は、「姉の淀が病気だから見舞いにこい」といって江を呼び寄せ、そのまま拉致同然に夫と離別させ、自分の養子である羽柴秀勝の妻にしてしまうのだ。
 もちろん、社会的な地位は佐治一成より秀勝の方が上である。しかし、自分の意思とはかかわりなく策略をもって夫から引き離され、見ず知らずの男の許に嫁がされた江の悲しみはどれほどのものであったろう。 
 姉の夫とはいえ、秀吉は実の父である浅井長政を攻め滅ぼし、養父の柴田勝家と母の市を自害させた張本人である。その男にまたしても運命を弄ばれた江の心に、秀吉に対する憎しみが芽生えなければ嘘だろう。
 ただし、本意ではない結婚であったにしろ、江と秀勝の相性はよく、二人の間には完子という娘が誕生した。ところがその直後、夫の秀勝は、秀吉が起こした文禄の役で朝鮮に出征させられ、文禄元年(一五九二)現地で亡くなってしまうのだ。
 このとき江はまだ二十歳である。
 いかに戦国時代とはいえ、二十年の間にこれほどまでに愛する者との別れを強いられた女性が他にいるだろうか。
 しかも秀吉は、美貌のこの未亡人をさらに利用する。
 文禄四年(一五九五)、江は娘の完子と引き離されて、徳川家康の後継ぎである徳川秀忠の許に嫁にやられる。このとき、江は二十三歳。新郎の秀忠は十七歳の若さだった。
 もっとも、秀吉には江を利用しているという気持ちはなかっただろう。最初の夫の佐治一成は吹けば飛ぶような小大名だった。それに比べれば二番目の夫の羽柴秀勝は豊臣の一族で、三番目の夫の徳川秀忠は天下の大大名徳川家康の後継ぎと目されている青年である。出戻るたびに格上の夫に嫁がせてやっているのだ、感謝しろ。くらいに思っていたのではないか。秀吉というのはそういう人だ。
 一方、江は娘と別れることを嫌い、最初、秀忠の許に輿入れすることに乗り気ではなかったともいわれる。しかし結果として、この結婚は彼女の運勢を大きく開くことになった。
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利し、天下は徳川家のものになり、夫の秀忠は家康の後継者の地位を不動のものとした。しかも、秀忠は歳上の美貌の妻を愛し抜いており、結婚した次の年には長女『千』が生まれ、その三年後には次女の『珠』が、その翌年には『勝』が生まれ、妻のいうことなら「縦のものでも横」といいかねないようなありさまであった。
 しかし、ここでも江にとっては『目の上のたん瘤』ともいうべき存在がいた。徳川家康である
                                   〈後編へつづく〉

西谷 史(にしたに・あや)
 三重県生まれ。東芝在職中にビジネス誌で連載をはじめる。1986年『女神転生』(徳間書店)で小説家に。同作品はゲーム化されミリオンセラーシリーズになる。
著書に『神々の血脈』『記憶』(角川書店)、『三番目のワッ』(毎日新聞社)、『東京SHADOW』(メディアワークス)、『タイムダイブ1986』(リーフ)、『黄金の聖獣』(光文社)、『水神の巫女』(学研)、『黄金の剣は夢を見る』(小学館)、『ど〜してねこ年はないのか』(主婦と生活社)など。
 
 
 


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