【知の庭】
 
2010.2.15
修羅の運命を生きた女

淀君(後編)
西谷 史

 秀吉の正妻『寧』は家康との人間関係を大切にしたのに、淀君は天敵のように家康を憎んだ。この、淀君の思慮のなさが豊臣家を滅亡させたという見方がある。しかしそう言ってしまっては淀君がかわいそうだ。
 寧が秀吉の妻になってから二十年間、家康は彼女より遥かに身分の高い武将だった。だから家康が豊臣家よりも優位に立っても、ごく自然にそれを受け入れることができた。しかし淀君が歴史の表舞台に登場したとき、すでに家康は秀吉の臣下であった。だから、その立場の逆転を受け入れることができなかったのだ。

■狂乱する秀吉

 天正十九年(一五九一)から文禄元年(一五九二)の二年間に、秀吉は目に入れても痛くないほどかわいがっていた養女の小姫、母親の大政所、そして最愛の息子の鶴松の三人を相次いで失った。
 この間の秀吉の悲嘆を伝える資料は多い。秀吉は関白の位を甥の秀次に譲ると、その悲しみを忘れようとするかのように朝鮮侵攻に没頭した。そして鶴松を懐妊してからというもの、当代一の有名人として日ごとの動静が伝えられていた淀君の記録が、突如として消えてしまう。それは、秀吉の嫡男の母親としてスポットライトを浴びた彼女の宿命でもあった。
 ところが文禄二年(一五九三)、秀吉の第二子『秀頼』を産むことによって淀君は再び表舞台に復帰した。あるいは、復帰せざるを得なくなったと言ったほうが良いかもしれない。
 秀吉はもう諦めていた実子を授かったことに狂喜した。
  ただ喜び、大盤振る舞いをするだけなら万人が豊臣家を祝福しただろう。しかし秀吉は、かわいい我が子に自分の跡を継がせるため、関白職を譲った甥の秀次が邪魔になった。そして謀反の疑いありとしてこれを切腹させ、何の罪もない秀次の妻妾や子供たち三十数名を惨殺してしまうのだ。
 これは単なるお家騒動には留まらなかった。秀次の臣下には、秀吉恩顧の武将が多数交じっている。秀次事件は、本来なら豊臣家の礎になるべき人々を、家康のもとに走らせてしまうきっかけになったのだ。
また、この事件は淀君と石田三成の陰謀だとする説があるが、そんな証拠はどこにもない。淀君は陰謀が企めるほどの悪人ではないし、それだけの度胸もない。秀頼が生まれた後も、できるだけ秀次とはうまくやっていこうと努力しているくらいだ。しかし、秀吉の愚かな振る舞いに対する憎しみは、秀吉本人よりも石田三成や淀君に向いたのは、なんとも気の毒なことであった。
 かくして息子可愛さに理性をなくした秀吉が死んで二年後の慶長五年(一六〇〇)、関が原の合戦が起こり、石田三成や淀君を嫌った大名達が家康の側についたことによって、徳川家康が天下の覇権を握る。


■関が原後の淀君

 テレビドラマでは、関が原の合戦の後徳川政権が樹立され、豊臣家は一大名に成り下がってしまったかのごとき展開が多いが、これは史実に反する。
 厳密にいうなら、関が原の合戦とは豊臣秀頼という名目上の主君の下で起こった覇権争いであり、徳川家康が勝利したからといって、ただちに家康が日本の国主になったわけではない。合戦に勝利した家康は臣下の礼をとり、自ら秀頼に挨拶に出向いている。これは逆臣の汚名を着たくないという家康なりの配慮もあっただろうが、福島正則や加藤清正など、関が原では家康に組したものの秀頼を主君とみなす大大名の反発を恐れたためでもあった。
 このとき、淀君は家康を信用してなんの手も打たなかった。まさに、お人よしというべきであろう。
 淀君がぼんやりしている間に、家康は着々と朝廷とのつながりを深め、慶長八年(一六〇三)右大臣征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。
ここで初めて、家康と秀頼の主従関係は逆転する。しかしそれと同時に家康は孫の千 姫を秀頼のところに輿入れさせたので、淀君はすっかり安心して豊臣家は安泰と思いこんでしまう。
 一方、秀吉の正室『寧』はさすがに賢明であった。このときまで、寧は秀吉の血を引く秀頼をかわいがり、なんとか彼を中心にした政治体制を作りたいと考えていたようである。しかし、家康の実力を目の当たりにして豊臣家はもはやこれまでとあきらめ、出家してしまう。
 寧が去ったあと、豊臣家の行く末を決定するのは、秀頼の母親である淀君しかいなくなってしまった。
 その淀君は、家康が秀頼を主君として守り立ててくれるかもしれない、という甘い期待を抱いていた。そのため、慶長十年(一六〇五)、家康が将軍職を息子の秀忠に継がせ、秀頼に上洛して挨拶するように求めると、初めて家康の本心に気がつき、「絶対にそんなことは許さない」と激怒するのである。
 だが、考えてみれば、これは秀吉が昔やったことと同じなのだ。秀吉は本能寺の変の後、信長の孫の三法師を織田家の跡継ぎとして立てておきながら、自分の権勢が高まるとあっさりとその存在を無視するようになる。
 秀頼を大大名として扱った家康の方が、まだしも礼儀を知っているというべきである。
 だが、淀君はそんなことは思いもせず、秀頼よりも上位に立った家康に怒りをぶつけてしまう。このときの淀君の愚かな対応が、家康に豊臣家を滅ぼす決心をさせた可能性が高い。
 家康は大義名分を大切にする武将だったから、豊臣家が徳川家の臣下になることを受け入れるなら、滅ぼすつもりはなかっただろう。しかし、現実を知らぬ淀君の高慢さに許せぬものを感じたのだ。
 だが淀君は、家康が底意を隠して譲歩すると、安心してまた平穏な暮らしに戻ってしまう。幼少時から苦労をしたせいで、気の強い女性ではあったのだが、どこかに甘さがあった。
 淀君がそれでも権勢を保っていられたのは、秀吉が集めた膨大な財宝が大坂城に蓄積されていたからである。そこで家康は、淀君のプライドをくすぐってその財宝を少しずつ消耗させる作戦に出た。

■大坂落城と淀君

 家康は、淀君に対して寺社仏閣の造営や寄進を勧めた。
 いち早く浅井一族の菩提を弔ったことでもわかるように、淀君はもともと神仏を尊崇する念が強く、豊臣秀吉を祀った豊国社はもちろん、北野天満宮、石山寺、奈良法華寺など伝統ある寺社を次々に復興、造営し、伊勢神宮外宮、内宮の改修にも惜しみなく金を使った。もし淀君がいなければ、京都・奈良の景観は現在とは違ったものになっているのではないかと思わせるほどの、すさまじい金の使いっぷりであった。
 その極めつけが方広寺の大仏殿の造営だった。
 これは秀吉の蓄えた財宝がすべて注ぎ込まれたと言われるほどの大事業であったが、慶長十九年(一六一四)この大仏殿の鐘銘に『国家安康、君臣豊楽』という文字が刻まれていることが明らかになった。
 これは家康を貶め、豊臣を栄えさせる一種の暗号だと難癖をつけた家康は、一気に牙をむき、『秀頼は大坂城を出て大和か伊勢に国替えすること。淀君は人質として江戸に下ること』という無理難題を突きつけてくる。
 ここにきて、淀君はもはや事態を収拾する力をなくしていた。
 情けないことに、家康に使いを送って自分たちには異心がないことを告げ、家康との窓口をつとめた家老の片桐且元を難詰する。そして暗殺を恐れた且元が館に引きこもると、「私たち母子はあなたのことを信頼している。どうぞ大坂城に出仕してほしい」と哀願するのである。ほとんど錯乱しているとしか思えない。
 そんな支配者のもとから、豊臣恩顧の家臣たちも次々に逃げ出していった。そして十一月十九日、大坂冬の陣の戦端が開かれる。豊臣方の武将はよく戦ったものの、淀君と秀頼は戦意をなくして講和条約を結ぶ。
 しかし、徳川方は講和条約を無視して堀を埋めたててしまい、大坂城は丸裸になってしまった。
 そして元和元年(一六一五)、徳川方は総攻撃を開始した。長宗我部盛親、真田信繁、毛利勝永らの武将はよく戦ったものの、天下の名城はついに陥落した。ここで天主に篭って自害したら、まだ面目は立ったかもしれない。しかし、彼女と秀頼は焼け残った城の一郭に隠れているところを見つかり、自害を強要されたという。
 同じような状況におかれ、「これほどまでに美しい奥方様は見たことがない」と言われながら自害した細川ガラシャと比べれば、惨めな死である。
 淀君は政治的な能力も、カリスマ性も、悪意すらなく、ただ高貴な人の嫡男を産んだがために修羅の運命に巻き込まれた哀れな女性だった。むしろ浅井の血脈を発展させ、三姉妹の名を高めたのは妹の『江』であった。

西谷 史(にしたに・あや)
 三重県生まれ。東芝在職中にビジネス誌で連載をはじめる。1986年『女神転生』(徳間書店)で小説家に。同作品はゲーム化されミリオンセラーシリーズになる。
著書に『神々の血脈』『記憶』(角川書店)、『三番目のワッ』(毎日新聞社)、『東京SHADOW』(メディアワークス)、『タイムダイブ1986』(リーフ)、『黄金の聖獣』(光文社)、『水神の巫女』(学研)、『黄金の剣は夢を見る』(小学館)、『ど〜してねこ年はないのか』(主婦と生活社)など。
 
 
 


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