【知の庭】
 
2009.12.28
世界で一番

お市を愛した男

西谷 史
 

 織田信長の妹であるお市は、その美貌と悲劇的な生涯で、もっともよく知られた歴史上の女性の一人だろう。しかし、彼女には謎が多い。
たとえば、絶世の美女と謳われながら、なぜ二十一歳までどこにも嫁がずにいたのだろう。当時の大名の娘は、政治的な思惑によって嫁ぎ先を決められるのが普通だった。信長の娘の五徳姫は八歳で徳川家に嫁ぎ、家康の孫の千姫は七歳で豊臣秀頼と結婚している。それなのにお市は、姥桜(うばざくら)といわれる年齢まで独身でいた。なぜそうなったのかというところから、お市と、彼女を愛した男たちの生涯を考えてみたい。

■柴田勝家という男

 天文二十年(一五五一)父親である織田信秀が亡くなってから弘治三年(一五五七)までの六年間、信長は織田一族のほとんどを敵に回して悪戦苦闘していた。その原因を作ったのは他ならぬ父親の信秀だった。 信長を高く評価していた信秀は、幼い信長に英才教育をほどこすため、居城を与えて信頼できる家臣をつけ、自分は妻や他の子供たちとともに末森城に住んだ。
そのため信長は母親や弟妹たちと疎遠になり、弟の信行が幅をきかすようになってしまった。中でも信行を溺愛していた母親は、信長を廃嫡して弟に家督を相続させようと企み、多くの家臣が信行の側についた。 その中で、最も有力な武将が柴田勝家だった。
後世の作家たちによって、勝家は愚鈍な武将というイメージを広められてしまったが、戦場の勝家は勇猛果敢で勝機を逃さず、統治者としては秀吉よりも早く刀狩を行って兵農分離を始めるほどの先見性があり、また決して人を裏切らない義侠心を持った理想的な武将だった。その勝家が、なぜ信行の味方をしたのだろう。  答えは、『お市』に対する慕情しか考えられない。
父親の信秀が急死した後、信長は一族の長に祭り上げられたものの、信行は本城の末森城を相続し、母親や妹たちを自分の庇護下に置いた。
 当時の大名にとって、女は人脈を形成するための道具のようなものだった。まして織田家の娘たちは、日本一といってよいほどの美女揃いである。信行がこれを利用しないはずがない。勝家に向かって、 「私が織田家を継いだ暁には、お市をそなたに与え、兄弟の盃を交わそう」
くらいのことは言っただろう。
実際、当時の勝家には主家の娘を娶るだけの実力があった。そして信行軍の大将となった勝家は尾張の稲生村で信長と戦ったのだが、完膚なきまでに叩きのめされてしまう。
この一戦で、信長の実力を知った尾張の武将たちは、雪崩を打って信長に味方するようになるのだが、勝家は信行の側を離れず、生命を賭けて信長の許に謝罪に訪れている。
だが、信行は再び謀反を企み、信長に清洲城に誘い出されて暗殺された。
勝家は、愚かな主人がいなくなってむしろほっとしたのではないだろうか。これで、お市の庇護者は信長になる。「お市様を貰い受けて、晴れて信長様の臣下になることができるとはありがたい」と思ったかもしれない。
だが、信長はそれほど甘い男ではなかった。

■浅井長政との結婚

 お市が、信長と一緒に清洲城で暮らすようになったのは、おそらく彼が織田家を完全に掌握した弘治三年(一五五七)頃であったろう。
信長はあらためてお市の美しさに見惚れるとともに、その価値にも思いを巡らせた。これほどの美女を嫁にやると言ったら、相手は一も二もなく自分の味方になるだろう。家臣の権六(柴田勝家)にくれてやるのはもったいない。もっともっと有能で、将来性のある大名はいないか?
  そんなふうにして自分の片腕となるべき武将を捜しているうちに、十年の年月が経ってしまった。もちろん信長は、この美しく聡明な妹を心から愛し、側に置いておきたかったのも事実であろう。
この間、正室を娶ろうとはせず、信長がお市をくれるのをじっと待っていた勝家こそ、いい面の皮であった。
しかし永禄十年(一五六七)、ついにすばらしい男が現れた。近江の青年大名、浅井長政である。武勇、知略、義侠心に富んだ彼に惚れ込んだ信長は、ついに掌中の玉お市を彼に与え、実の弟のように優遇した。
しかし信長は一つ計算違いをしていた。長政本人は非の打ちどころのない武将であったが、長政の両親や、彼の家臣たちは室町時代の価値観にどっぷりとつかった古い日本人だったのだ。そのため元亀元年(一五七〇)、信長が浅井氏の盟友であった越前の朝倉氏を攻めると、長政は信長を裏切って朝倉氏の側についた。しかも、お市までもが浅井家の嫁として夫を支え、信長を顧みようともしないのである。
信長は激怒した。
それから三年かかって浅井家を攻め滅ぼすと、信長は長政と父親の久政の頭蓋骨に装飾をほどこし髑髏盃にして、群臣にさらしている。そして長政の長男の万福丸は串刺しにして処刑し、長政の母親はじわじわと指を一本ずつ切り落として殺している。
これほどまでに長政を憎んだのは、裏を返せばお市をそれほど大切にしていたということでもあろう。
天正元年(一五七三)浅井氏が滅んでお市は信長の庇護下に入るが、お市は長政を慕い続け、信長もあえて彼女を再婚させようとはしなかった。だが、信長が本能寺の変で亡くなると、再び彼女は男たちの政争の道具として扱われる。

■柴田勝家との再婚

 天正十年(一五八二)、信長と嫡男の信忠が本能寺の変で亡くなると、信長の跡目を誰が継ぐかを決めるため、重臣たちは清洲に集まった。
このとき秀吉は信忠の息子の三法師を跡継ぎとし、自分が後援者になることを主張し、勝家は信長の三男の織田信孝を跡継ぎに推薦した。
家臣団の中の格でいえば、もちろん勝家の方が上である。しかし、秀吉は逆臣の明智光秀を殺し、主君の仇を討ったという錦の御旗を背負っていた。両者は舌鋒鋭く対立し、妥協点は見つからず、信長が築き上げた帝国は分裂するかと思われた。 そんなとき、「お市様を勝家殿のご正室にしてはどうか」という意見が出された。
信孝が勝家を味方につけるためにそれを言い出したのだという人もいるし、秀吉が勝家の不満を和らげるためにそうしたのだという研究者もいる。ともかく、織田家重臣たちの間で、勝家がお市に惚れ抜いていることはよく知られていたのだろう。
その結果、清洲での会談に臨む前、信孝を織田家の主にして自分が重臣筆頭としてそれを支えるという体制を考えていた勝家は、お市を妻とすることに満足して自分の主張を引っ込めて、北陸に帰ってしまったのだ。
勝家にとって、お市を娶ることは生涯の目標だった。お市を妻にするために信行に組した三十年前から、勝家はただこの日を夢見て戦場を駆け巡ってきた。夢がかなって虚脱状態に陥っていた勝家は、その隙を秀吉に衝かれ、賤ケ岳の戦いに敗れて自害するところまで追い込まれる。
もちろん、勝家にはお市を道連れにするつもりなどなかった。たとえ僅かの間でも、お市を妻とすることができただけで充分であった。だから、お市が城を脱出せず自分とともに死ぬと言ってくれたとき、信じられぬ思いがした。
だが、お市はもうこの修羅の世に未練がなかったのだ。
物心ついてから今日まで、接するすべての男性はお市の美貌に憧れ、我が物にしようとした。しかし、自分が愛したのは浅井長政一人で、もう二度とその胸に抱かれることはないこともわかっている。
もしかしたら信長の後継者になれたかもしれない資質を持ちながら、愚直に自分への愛を貫いて滅ぼうとしている勝家のために、ここで死んでやってもいいとお市には思えたのだ。
そして三人の娘たちに、愛する長政の血脈を護ることを命じて逃がし、勝家とともに死出の旅についた。天正十一年(一五八三)四月二十四日のことであった。


西谷 史(にしたに・あや)
 三重県生まれ。東芝在職中にビジネス誌で連載をはじめる。1986年『女神転生』(徳間書店)で小説家に。同作品はゲーム化されミリオンセラーシリーズになる。
著書に『神々の血脈』『記憶』(角川書店)、『三番目のワッ』(毎日新聞社)、『東京SHADOW』(メディアワークス)、『タイムダイブ1986』(リーフ)、『黄金の聖獣』(光文社)、『水神の巫女』(学研)、『黄金の剣は夢を見る』(小学館)、『ど〜してねこ年はないのか』(主婦と生活社)など。
 
 
 


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