【知の庭】
 
2009.12.07
戦国一のカリスマ美女

細川ガラシャ

西谷 史

 日本のキリシタンを代表する存在として、また才色兼備の妃として海外でも名高い細川ガラシャは、永禄六年(一五六三)明智光秀の三女として生まれ、玉(たま)と名づけられた。このころ明智光秀は浪人の身であったが、永禄十一年(一五六八)後の将軍足利義昭と織田信長を結びつけたことから運が開ける。
その後信長に仕えた光秀は知略に長けた武将として頭角を現し、たちまち織田家の重臣となる。そして天正六年(一五七八)信長の仲人で、光秀の娘の玉は細川幽斎の息子の忠興のところに輿入れした。光秀と幽斎は昔からの友人で、これは両家にとっても願ったりかなったりの縁談であった。
玉は美しいだけではなく、何をやらせてもすぐに師匠を超えてしまうほど明晰な頭脳の持ち主で、忠興はそんな妻に夢中になり、すぐに一男一女が産まれた。しかし二人の幸福は長くは続かなかった。

■本能寺の変
 天正十年(一五八二)六月三日、光秀は主君の信長を本能寺に急襲し、天下獲りの野望を露にした。そして二十年来の盟友であった幽斎と、娘婿の忠興に自分の味方になってくれと懇願する。
しかし光秀には勝機なしと見極めた幽斎は、息子の忠興を説得して明智家と絶縁してしまった。頼りにしていた細川家に見捨てられた光秀は、なすすべもなく秀吉に敗れ、逃走中に土民の竹槍にかかって惨めな最期をとげる。
絶縁したとはいえ、光秀と兄弟のように親しかった幽斎には共謀の疑いをかける人もいた。そこで幽斎は剃髪して引退し、忠興は秀吉に忠誠を誓い、謀反人の娘である玉を丹後の味土野に幽閉してしまう。
このとき玉は忠興の仕打ちを悲しみ、夫婦の間に亀裂が入ったという歴史家も多いが、はたしてそうだろうか。

■玉は、信じられないほど愛されていた
 改めて指摘したいが、玉は主殺しの大罪人の娘である。光秀には少なくとも三人の息子と三人の娘がいたが、山崎の合戦から坂本城が落ちるまでの数日間にそのほとんどが自害するか殺された。
なかでも哀れを極めたのは、玉の妹を嫁にしていた織田信澄であった。信澄は信長の甥にあたり、信長の命によって光秀の娘を娶ったのである。それなのに光秀の娘婿だから謀反の疑いがあると勘ぐられて、謀殺されている。そんな中、明智一族でただ一人生き残ったのが玉だった。
細川家にしてみれば、身の潔白を証明するには玉を自害させるか、仏門に入れるのがいちばん良い方法だった。けれども忠興はそうしなかった。妻を辺境の地に幽閉して、ほとぼりが冷めるのをじっと待っていたのである。
なぜか? 
どう考えても、妻を愛していたという以外の理由は見つからない。
玉に関しては、他の武将も別格扱いしている。家のためなら妻も子も殺すのが当たり前だったこの時代に、妻に執着する忠興を笑うどころか、秀吉などは二年の謹慎期間がすぎると、もう許してやってもよいではないかといって二人を復縁させている。
それほどまでに忠興は玉を愛していたし、まわりもそれを当然だと思うほど、玉はすばらしい女性だったのだろう。ここまでしてもらって、夫を恨むような女は阿呆である。もちろん玉は阿呆ではないから、夫である忠興に感謝していたに違いない。にもかかわらず、玉は満たされぬ日々を送っていた。
父親のせいである。

■キリシタンになる
 例えは悪いが、現代でも親が人を殺したら子供は肩身の狭い思いをするだろう。まして玉が生きていたのは、儒教道徳が幅を利かせていた十六世紀である。どれほど自分が完璧な人間であろうと、主人を殺した謀反人の娘だという事実はあらゆる努力を無にしてしまうほどに重かった。
玉が心の平安を取り戻すためには、旧来の価値観を捨て、精神的にも父親との縁を切ってしまう必要があった。もちろん儒教や仏教では、子が親を捨てることは許されない。だが、キリスト教ではそれが許される場合があることを、玉は知った。
もともとユダヤ教の中の新興宗教であったキリスト教は、神と人の結びつきは、親と子の結びつきに勝る。従って親を捨ててでも信徒になれと説いた。それはまさに、玉のためにあるような教義だった。
優れた頭脳の持ち主にふさわしく、神父たちがあきれるほど詳しい教理問答を繰り返した後、天正十五年(一五八七)玉はついに洗礼を受け、細川ガラシャとなった。

■とび抜けたスター性
 もともと、ガラシャは美しく聡明な女性ではあったが、家臣には厳しいところもあったようだ。しかしキリシタンになった後の彼女は、だれにでも優しく、すばらしい女性になった。ここで細川家にまた大きな問題が発生した。
キリシタンになったことによって、さらに魅力的になったガラシャと接しているうちに、家中の者がキリシタンに改宗し始めたのだ。侍女たちはもちろんのこと、忠興の弟の忠元は家臣を引き連れて洗礼を受け、おまけに幼児洗礼を受けた忠興の次男を自分の養子にしてしまった。
一方で、いままでキリスト教に寛容だった太閤秀吉が、ガラシャの活動を封じるように禁教令を出したのだ。忠興の心痛はいかばかりであったろう。
しかし、忠興は妻に信仰を捨てさせようとはしなかった。それどころか邸内に礼拝所を作ることを認めてさえいる。ただ、自分以外の男に心を移してはならぬ。屋敷の外に出てはならぬと、警護を厳しくするばかりである。
儒教道徳が支配する戦国の世に、ここまで妻を愛することのできた忠興は、いっそ見事といえる。
ただし、ガラシャに振り回されたのは忠興ばかりではなかった。
一時、ガラシャは信仰に打ち込むあまり、夫と別れて隠棲することも考えたらしい。それを聞いた宣教師たちは真っ青になった。それでなくても秀吉はキリスト教を敵視し始めている。もし、有名人のガラシャが信仰のために夫を捨てるようなことがあったら、秀吉はそれ見たことかと日本のキリスト教会を根絶やしにしてしまう。だから、どうか現在の地位に留まっていてくださいと、神父オルガンチノが哀願している。
大名の親族でキリシタンになった女性は多いが、ここまで神父に言わせた人は他にいない。つまり、それだけガラシャの影響力は大きかったのだ。

■真のカリスマ
 そして秀吉が亡くなり、豊臣家と徳川家の関係がきな臭くなってきた慶長五年(一六〇〇)、豊臣側の総帥である石田三成は姑息なことを考えた。
徳川家康に味方しそうな大名を牽制するため、彼らの家族を大坂城に入れて人質にとろうとしたのだ。まっさきに狙われたのは、周囲に絶大な影響力のあるガラシャだった。
だが、誇り高きガラシャがそんな命令に従うわけがない。
三成からの再三の要請を無視。怒った三成が邸宅を取り囲むと、かねてからこの日がくることを覚悟していた彼女は、家臣の小笠原少斎に介錯させて三十七年の生涯に幕を閉じ、屋敷に火を放って自分の亡骸さえ残さなかった。
その壮烈な最期は、他の大名の同情と怒りを引き起こし、石田三成は人質をとることをあきらめざるを得ず、それは関が原で西軍が敗北する一因となった。そして一時的にではあったが徳川家康はキリシタン禁制を緩め、ガラシャの一周忌は教会で行われ、忠興の母も、介錯を務めた小笠原少斎の息子たちも洗礼を受けたのだった。
そもそもガラシャはキリシタンとして特別な善行を積んだわけではなかった。政治的には何もしなかったといっていい。ただ、自らの魂の救いをキリスト教に求めただけで、周囲にこれだけの影響を及ぼしたのだ。これが本当のカリスマというものだろう。

西谷 史(にしたに・あや)
 三重県生まれ。東芝在職中にビジネス誌で連載をはじめる。1986年『女神転生』(徳間書店)で小説家に。同作品はゲーム化されミリオンセラーシリーズになる。
著書に『神々の血脈』『記憶』(角川書店)、『三番目のワッ』(毎日新聞社)、『東京SHADOW』(メディアワークス)、『タイムダイブ1986』(リーフ)、『黄金の聖獣』(光文社)、『水神の巫女』(学研)、『黄金の剣は夢を見る』(小学館)、『ど〜してねこ年はないのか』(主婦と生活社)など。
 
 
 


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