【知の庭】
 
2009.11.9
生駒家の娘、吉野を見初める

信長が心から愛した女

西谷 史

 織田信長は武勇にすぐれ、天才的な頭脳を持った英傑ではあったが、徹底した合理主義者で、自分を裏切る者は決して許さない苛烈な人だった。これが、日本人のイメージする一般的な信長像ではないだろうか。
たしかに永禄十一年(一五六八)将軍義昭を奉じて入京した頃から、信長は冷酷な人になっていく。


小牧城の秋

■なにが信長を変えたのか
 比叡山を焼き払い、老若男女の別なく首をはね、自分を裏切った浅井長政の首を髑髏盃にし、実の妹であるお市の生んだ男子を磔にして処刑してしまう。
 浅井、朝倉氏を滅ぼすと今度は伊勢長島の一向宗徒に打ちかかり、二万人あまりの男女を焼き殺すのである。そのあまりの冷酷さに怯えて、重臣の荒木村重が逃亡すると、荒木の妻子は磔にされた。これは天正七年(一五七九)のことで、この頃になると信長に忠実だった股肱の臣たちも、さすがにつきあいきれなくなってくる。
 しかし、信長が生まれつき冷酷非情な人だったとは思えない。『信長公記』を初めとする当時の史料を見ると十代、二十代の頃の信長は明るく陽気な青年君主で、気を許した小姓たちと戯れ、めでたいことがあれば臣下と一緒になって躍りあかし、まわりの者から本当に慕われている。それがいつからああなってしまったのか。
 私は、心から愛した女性を失ったことが、信長の心を変質させてしまったのだと考えている。

■年上の人吉野
 信長の正室は、美濃の斎藤道三の娘濃姫である。濃姫が信長のもとに輿入れしたのは天文十七年(一五四八)のことだ。
 二人の結婚は、長年敵対してきた美濃と尾張の融和の象徴であり、国人たちにとってはたいへん喜ばしいことだったに違いない。しかし二人の間に子供ができず、また信長に関する文献に、嫁いだ後の濃姫に関する記述がほとんど見当たらないことからすると、二人の仲が良かったとは思えない。
 そんなとき、信長は一人の女性と運命的な出会いをする。
 若い頃の信長には有力な後援者が何人かいたが、郡村の生駒家長という土豪はその一人だった。生駒家は灰と油の商いによって財を築き、家長の時代には城のような大邸宅を構え、諸国から名のある兵法者が集まっていたという。
 そうした人々から諸国の事情を聞くため、信長はこの生駒屋敷を訪ねていたらしい。そこで吉野(きつの)という美しい女性を見初めたのだ。
 吉野が未婚の娘なら、ただちに信長の側室になって万事うまく納まったことだろう。だが生憎と、彼女は夫を亡くしたばかりの未亡人だった。しかも年上であったから、まわりの家臣たちは諌めたに違いない。
 しかし信長はこの女性にもう夢中になってしまい、頻繁に生駒屋敷を訪ねた。そして弘治元年(一五五五)二人の間に男の子が誕生した。これが信長の嫡男信忠である。だが、濃姫の怒りを恐れた生駒家は吉野の存在を知られまいとして彼女を隠し、信長もそれに同調したといわれている。
 だが、私はこの説には賛成しかねる。むしろ、この時期に吉野を側室としなかったのは、信長の愛の証ではなかっただろうか。
 たしかに濃姫や、濃姫を支持する国人たちは吉野にとって厄介な相手ではあった。しかしそんなことより、当時の尾張は駿河の今川義元につけ狙われ、おまけに家臣たちは弟の信行派と信長派に二分され、信長はいつ暗殺されてもおかしくないような状況だったのだ。
 もし側室にしてしまったら、信長に万一のことがあったとき、吉野や子供は殺されるかもしれない。しかし圧倒的な財力を誇り、尾張の土豪たちのまとめ役である生駒家長のもとにいるかぎり、だれも手出しはできない。そう考えた信長は、吉野を側に呼び寄せず、自分が彼女のところに通うようになった。

■信長の純愛
 いくら長男を産んだとはいえ、信長ほどの身分の者が、正式に妻にしたわけでもない年上の未亡人にいつまでも執着するというのは、当時の常識では考えられないことだ。
 だが信長は吉野への愛を貫き、合戦に明け暮れる日々を送りながら、十年間も彼女の許に通いつめ、さらに信雄、徳姫という二人の子供を授かる。まさにこれは戦国随一の純愛といってもいいのではないだろうか。
 しかし、どれほど愛されていたとしても、日陰者の地位に置かれた吉野には辛いこともあっただろう。けれども、そんな吉野がついに天下の注目を浴びる日がやってきた。
 今川氏の脅威を取り払い、自分に敵対する弟を殺して尾張一国を掌握した信長には、もはや恐れるものはなくなった。そこでしがらみの多い清洲を離れて小牧に城を構え、愛しい吉野のための御殿を築き彼女を呼び寄せたのだ。
 だが、吉野は小牧城に行かなかった。
 いや、行くことができなかったのだ。
 先年、吉野は長女の徳姫を産んでいた。その産後の肥立ちが悪く、食事をとることすらできないほど体が衰弱していたのである。
 それを知った信長は、わずかの供を引き連れて吉野のところに駆けつけ、どうか小牧城に移って養生してくれと哀願する。
 もはや妻としての役割を、何一つ果たすことができない体になってしまったにもかかわらず、信長の吉野への愛情は変わらなかったのだ。
 『この人のために生きなければ……。』
 燃えるような思いが、吉野の身体を貫いた。
 吉野はやせ衰えた体に僅かばかり残された生命の火を燃やし、輿に乗ってとうとう小牧城に入った。彼女のライバルであった濃姫は、後ろ盾となっていた父を亡くし、跡継ぎを産むこともできずにいた。いまや、吉野こそが正室といっていい存在であった。
 群臣は彼女の前にひれ伏したが、彼女にとってそんなものはどうでもよかった。ただただ、妻として信長の側にいられることが嬉しかった。

■吉野の死が信長を変えた
 だが病魔は彼女の体を蝕み続けた。織田家をあげての看病も空しく、永禄九年(一五六六)九月十三日、今日の暦でいえば十一月四日、小牧山の紅葉が赤く染まるころ吉野は永眠した。
 そのとき信長がどれほど悲しんだのかを伝える資料はない。
 だがこの翌年美濃を攻略すると、信長は築いたばかりの小牧城を離れ、岐阜城に移っていく。
 信長の天下獲りが始まり、またその非情さが露になるのは、まさにこの年からなのだ。
 もし吉野が生きていて、信長との愛を育み続けたら、はたして信長は天下を望んだだろうか。少なくとも、あれほど苛烈な後半生を送ったとは思えない。小牧に腰を据え、美濃、尾張、伊勢という肥沃な農業地帯を支配することに満足し、息子の信忠に天下獲りの野望を託したかもしれない。
 やさしく、美しく、ただ一人の男を愛すことに命をかけた吉野は、前田利家の妻の『まつ』や、豊臣秀吉の妻の『北政所』のように政治に介入することはなかった。しかし、日本一苛烈な男に愛を与え、死によってその男の本性を目覚めさせた。彼女こそ戦国史を作った第一の女性ではなかっただろうか。

西谷 史(にしたに・あや)
 三重県生まれ。東芝在職中にビジネス誌で連載をはじめる。1986年『女神転生』(徳間書店)で小説家に。同作品はゲーム化されミリオンセラーシリーズになる。
 著書に『神々の血脈』『記憶』(角川書店)、『三番目のワッ』(毎日新聞社)、『東京SHADOW』(メディアワークス)、『タイムダイブ1986』(リーフ)、『黄金の聖獣』(光文社)、『水神の巫女』(学研)、『黄金の剣は夢を見る』(小学館)、『ど〜してねこ年はないのか』(主婦と生活社)など。
 
 
 


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